あかんたれブルース

継続はチカラかな

ヘビーだったマムシの毒のような電話



川崎の介護施設での連続殺人事件は
その動機をふくめて不可解なものでした。
と同時に、現在の介護現場と状況や
この国の在り方を重ねてみれば必然とも思った。
一昨日の朝、そのことに
あとどれくらいこういった悲劇が積み重なければ
この社会は変わらないのだろうかと思った。

そんな折に、友人(A)から電話があった。
それは超ヘビーな相談事でした。
Aの友人に介護施設で働くBという青年がいる。
とても真面目な青年だそうです。
Bは介護士として重複障害の患者の世話をしている。
重複障害とは
読んで字のごとく障害が二つ以上あることで
分りやすくいえば知的・精神障害
身体的障害があるとすれば理解しやすいかもしれない。
そういう患者の世話は想像以上に大変だそうです。
それでも前向きにその職務に従事しているBに
密かに尊敬とエールを送っていたAだった。

そんなBがここのことろ様子がおかしかった。
たぶんに追い込まれてしまっていたんでしょう。
どんなに献身的に世話をしても
報われない仕事。
社会からも
そしてその患者達からも
報われないどころか彼らの仕事に対して
患者から浴びせかけられる罵倒と怒号
慢性的な人員不足
それに見合う報酬があるわけでもない。

ここで誤解を恐れずに敢て言えば
障害者が性格が良いという考え方自体が
逆に差別意識そのものだということ。
健常者一般人でも色々な人がいるわけじゃない。
ましてや障害という社会的ハンデを背負う
環境条件であれば、そこからひねくれる場合も
多いと思うわけで、
そういうタイプの患者を世話する家族や介護人の
現実の苦労は想像を絶する修羅場だ。
関係ない小市民はしれっと
お決まりのキレイ事をならべるけどね。

そんなこんなで前向きだったBさんは
追い込まれていったのでしょう。
ある決意が芽生え、それを決行するという。
それは、
この不毛な連鎖を断ち切るために
殺す。という選択だった。

大変な暴論であり凶行なのですが
これを直ちに諭し思いとどめさせることが
できるか? わたしはできないなあ。

Aもできなかったのだといいます。
それが間違っていることはわかるけれど。
それでも必死に止めたと。
真面目なBを犯罪者にしたくないという思い
だけで必死だったわけだ。
それでもBを納得させられる説得力がないことに
Aは苛立ちジレンマをかくせない。

痛くせつない話だった。
と同時に不意の相談事でしたが
今朝の思いと重なってタイムリーというか
自分とAとのシンクロ現象なのかとも思った。
糖尿ボケの脳ミソをフル稼働させて考えた。
おざなりのマニュアルではなく
これまでの経験や考察を引っ張り出して
3つの考え方(アイデア)をまくしたてた。
それが決定打ではないことは承知のうえですが
それがわたし自身の精一杯だった。


その1 B君の立場から

彼の気持ちは痛いほどわかる。
世の中に棲むひとびとは自分に関係なければ
それは所詮、他人事だ。
それに対する一般論や原則論はいくらでも言える。
当事者はそうじゃないんだよねえ。

以前、北欧で障害者が遺伝子を残さないような
医療行為は行政として密かに行われていたことが
問題となったことがあります。
頭の痛い問題だった。
福祉の優等生である北欧で、だよ。
こういった不幸を悲劇をいつまで続けるのか。
また、B君の苦悩は自分達や周囲のことだけじゃない。
その障害者自身の不幸の究極の解決策
というものでもあったはずだ。
まるで生き地獄じゃないかと考えたんだと思う。
その意味で、AもわたしもB君を簡単に否定できない。

一億総活躍社会とかアベノミックスとか
そんな音頭が空しく聞こえるくらい
日本の社会は歪で空洞化してて脆弱で劣化している。
介護問題が大きく取り上げられるなかで
政治家や役人が考えること
他人事でしかない一般市民が考えることは
当事者のそれとは温度差があり
また


ごめん今日は酔っちゃったわ
続きは次回また日を改めて