あかんたれブルース

継続はチカラかな

せつない未熟さ踏み込みの甘さ

ヘビーだったマムシの毒のような電話(2)


昨日の続き、B君の立場からでしたね。

また、平等、権利、人権、命の尊さなどの
御託をならべても
わたしでさえ納得できないのに
そんな原則論で思いつめたB君を納得させられる?
みんなが大好きな憲法でさえコレだもんね。
議論? いったい誰と?

B君が選んだ選択肢は
たとえば沖縄問題とか難民問題などで揺れる
米国大統領選挙とか
民主主義、資本主義の行き詰まりとも
無関係ではないそうです。


その2 B君の対極の立場から

わたしにとってもこの障害者の問題は
漠然とではあっても昔から抱える悩み種だった。
10年前にこのブログを立ち上げてから
様々な人たちがゲストブックに内緒コメで
様々なカミングアウトを残していったものです。
そのなかに障害に関するものは少なくない。
Cさんは関西在住で二代目社長として
ハイソなライフスタイルでファンを羨ませがらせていた
けれどもその実、彼は深い闇を背負っていました。
自慢の三人娘の一人が重度の障害を抱えていた。
そのことは誰も知らない。
Cさんは救いを求めていた。

そんななかで介護施設で働くDさんがいた。
わたしは彼に障害者の幸福と不平等について
聞いてみたことがある。
Dさんはそういう彼らにも彼らなりに
喜びや幸せがあると言い切った。
誠実な彼のこの答えには100%納得はしないものの
一筋の光のようなような考察の手掛かりとなった。
哲学的にいうと人間の特性は「過剰」と
「比較」(思考法としての癖)だといいます。
健常者からみて障害者の不幸とは
あくまでも主観的な自身との比較から
成立っているわけだ。
となりの芝生もあれば目黒のサンマもあるし
ピンからキリまでで上には上が下には下が
そこに優越感と劣等感の個別の尺度があるものです。
五体満足と片輪もその尺度のなかにある。
無論、障害者がハンデを背負ってることは事実ですが。
金持ちと貧乏人、イケメンと不細工、若者と年寄り
そういう格差のなかにこの世は成立っている。
そんななかでの平等とか公平は難しいスローガンだ。

高校時代から運命学をかじってきた自分は
生年月日で算出される運命見積書の矛盾を
集団的厄災(航空機事故、戦争・原爆など)と
同じカテゴリーに障害者を入れてしまっていた。
先天性と後天性をふくめても
それは間尺にあわないものでした。

そこから先は宗教学の世界になってしまうのか

B君は間違っている。
その間違いは健気なほどほどに誠実だからこその
間違いだと思う。だから痛いのだ。
性急に答えを導き出そうとしてはいけない。
もっといえば、考え方の踏み込みが足らないのだ。
お前の主観だけですべてを判断する
その若さ未熟さ驕り気弱さを反省すべきだと
直接会って言えるのであれば
真剣に伝えたと思いました。

その3 は、両者の中間に位置して
ニュートラルなアプローチです。