あかんたれブルース

継続はチカラかな

働かない蟻の意義

ヘビーだったマムシの毒のような電話(3)


その3 ニュートラルな立場から

事は哲学・宗教的な話にまで拡大する。
わたしはそこに人間の幸福の捉え方と
価値観の問題が横たわっていると思うのです。

なにをもって人間は幸福感を実感するのか?
答えは即答で「愛」だという。
ところがぎっちょんそうなると
「それはそうだけど」から「やっぱりお金は・・」
と条件がつくものです。
最低限の歩み寄りでも「健康」となる。

健康じゃない人はどうなるんだよ。
謙虚そうにみえて置き去りじゃないか。
生死観としても
長生きできれば幸せのようにいう。
そこにも条件があって幸せな老後に必要な
お金の算盤がはじき出され日経あたりから公表され
それに怯えたりホッと胸をなでおろしたり
赤くなったり青くなったりだ。

生きる事に価値を見出すことはいいけれど
どう生きるべきかは横に置かれている。
そこが肝心じゃないのかなあ
そしてそこに価値がある。

けれども、そうなると立志伝中の人物とか
成功者だけが価値があり、市井の労働者とか
ましてや社会的に何の功績も残せない
ましてや庇護されて生きるしかない障害者は
また置き去りにされてしまうわけさ。

そういう尺度とか価値観の根本が間違ってる。

地域によって様々ですが
障害者が生まれると福子として
その家を繁栄に導くという伝承があったという。
また地域全体で庇護したそうです。
またそこにはそういう者たちはイザというときに
特殊な能力を発揮して皆を救ってくれるという
言い伝えがあったり、時には人身御供として
生贄にされたりもしたといいます。
(↑)
最近、働き蟻のなかにまったく働かない蟻の存在が
話題になっていますよね。二八の論理の逆理論。
動物学的にこれが集団の存続のための効果的な
自然本能のようで科学的に合理的なものだそうです。

また、違う視点からいえば
メキシコで障害者が生まれた(障害者)レスラーに
なれると周囲は祝福し羨ましがられる。
中東の貧民地域では敢て不遇者にして
物乞いにさせて生計をたてさせていた。
所替わればいろいろだ。

みんが豊かになりたい。満たされたい。
それがゆえに悲劇は拡大している。
でもさ
豊かさとは何か?
幸福とは何か?

煩悩の極致として、自分だけはといのがある。
それが愛する人から家族へ共同体へ国家へ
それが全世界全人類まで拡がればいいのでしょうが
紀元後の2016年経ってもまったく見通しが立たない。
そのために最終戦争というアイデアさえ
いまだにある。ジハードとか名称はそれぞれ。

根本の本質が方向性が違ってるんじゃないか?
人間の幸せとは何か?

なぜ私達は生まれてきたのか
なぜ彼らは生まれてきたのか
それぞれに必ず役割があると考える。

真宗で「他力」という考え方があります。
生かされている凡夫である私達。
それなのに自力に奔ってしまう。
それを自立とか独立と言い換えて推奨する。
そこにひそむ驕りなど気にならない。
学校教育では「他人に迷惑をかけない」生き方を
教えてきた。そういう人になれと。

ほらまた障害者たちは置き去りだ。

そうじゃない。
みんな大なり小なり他人に迷惑かけて
生きているのが現実ではないのか。
持ちつもたれつ困ったときはお互い様
お陰さまの思想。

人間の幸福感には
困っている人に手をさしのべたい気持ちがある。
それさえも罪深くいう世相風潮がある。
優先順位としてまず自分のことが第一だと。
そんなものかね。
それでその欲求は満たされるのか?
その先に幸福感は得られただろうか・・・
CMで矢沢永吉がいってるよ「やっちゃえ」って
自分が思うようにやる、生きる
朝の連ドラでも毎朝歌ってるじゃないか。

そうするにはいくらのカネが必要なのか
どれほどの力がまだ足りないのか
そんなものじゃない。それは詭弁だ。

わたしは長く女性誌の制作を手がけていた。
転職や資格の別冊の表紙には四本柱があって
ひとつは年収倍増、そしてキャリアアップ
その他には、なりたい自分と
人のためになれる仕事が毎回掲げられていた。
これが私達の欲求なのだ。
中国人とかコリアがどうかは知りませんが。
それは健全な人間の欲望であり煩悩だ。
そして感謝されたい。それはお金じゃないんだぞ。

人それぞれには役割があって
それを天命と申すそうです。
また、それぞれがご縁で繋がっているのだと。
愛縁も奇縁も悪縁もすべて意味がある。
Bさんを追い込んだその性悪の障害者の存在も
意味があって役割があって生まれて生きている。
たとえばBさんに出会うこともそのひとつだった。
心なくBさんを罵倒して彼を追い詰めるためかも
しれない。
そのことでBさんは深く傷つき追い込まれ
殺意を抱きそれを決行しようと考える。
でもね、その出会いのご縁はそのためじゃない。
そこから、その先の一歩二歩先にある答えを
Bさんに導きさせるためのものだ。
そのご縁には当然のようにAもわたしも
そしてこの記事を読んでくれた人にも繋がっている。
ユングはたぶんそういうことをいってるんでしょう。

Bさんが間尺があわないと
何人殺しても焼け石に水だ。
Bさんは捨石でもいいというけれど
それにさえもなれない。
なんの効果もないでしょう。
いやもしあったとしたら
そういう事件が多発して3万人ぐらいが
殺されて世間が冷水を浴びせられ
マジで真剣にこの問題に向き合うのであれば
その悲劇もすこしは効果があったといえるか。
それっくらい世の中は無関心で他人事なのだ。
この記事の最初に記したように
川崎の不可解な事件がもっともっと多発連動しないと
ということと同じですかね。

でもね
制度が法制が変わってそれだけじゃだめだ。
どんなに素晴らしいと信じられた
マルクス社会主義共産主義をみてごらん。
結局は人間がやることだからねえ。

そんなことではなく
そっちの方向ではなく
肝心なのは
もっと個人的な根本的な人間の幸せのことが
わたしは重要なんだと思う。

煩悩の極致としての
自分のための幸福感の欲求
その本質に向き合うべきではないのか。
人が幸せになるために生まれてきたのであれば
それしか手はないと思います。