あかんたれブルース

継続はチカラかな

腐った牛乳

昨日の『新仁義の墓場』について

なんで石川力夫にスポットを当てないといけないのか。
厄ネタというなら石川がやくざだった以外に
夜桜銀次こと平尾国人ほどの事件を起こしたわけでもないし
単なる親(分)に逆らったポン中ではないか。
美能幸三ほどの道義的動機があるわけでもないし。
梅川昭美・鳴海清ほどの数奇な因果があるわけでもない。

東映実録路線に『京阪神殺しの軍団』つーのがありまして
山口組の戦闘集団柳川組及び初代組長柳川次郎をモデル
主人公にした作品でした。
この試写会に柳川次郎(引退して元組長)が招待されて
試写後の感想は
「これじゃあただの人殺しじゃないか」と憮然と漏らした。

やくざ暴力団にしても一分の道理があるものです。

石川のそれにはそれがない。

ないからこそ「魅力」だというのかもしれない。
しかしそれは変なんじゃないかなあ
少なくとも戦後極道を代表する散っていったやくざ達とは
別人種であって、なんの感情移入もでけんのです。
厄ネタを通りこしてキチ○イの領域だ。
FBI心理捜査官の管轄か。いやプロファイルも無理だね。
そういう異常性の恐いものみたさが企画コンセプトなのか。
そういうのってやくざ、犯罪者に対する
冒涜ともいえる。とわたしは感じる。
こういう感覚は『共食い』とか『苦役列車』が
しれっと文学賞を受賞し映画化される苛立ちと同じだ。
無論これは私個人の感想ですよ。

すくなくとも松本清張の『鬼畜』の犯人には
それなりに感情移入できるし、社会派というジャンルとして
認められるんですけどね。

異常性というものにこだわって掘り下げる
文学性芸術性が理解できない。
娯楽性としては、あるのかなあ。

『新仁義の墓場』で
警察に逮捕拘束された石川が牛乳を腐らせて飲むという
ジギリをかけて逃走する場面がある。
これは後付けのフィクションで元ネタは
凶健と呼ばれた大長健一のエピソードからだと思う。
わたしは血糊などの残虐シーンには強いほうですが
この腐った牛乳には思わず目を背けたよ。
太陽を盗んだ男』でもあったでしょうか?

グロだね。いやゲロでした。

そしてうんこ垂れ流しで
その糞尿に階段を滑り転げる兄弟仁義には爆笑した。
ナンセンスだね。ギャグだよ。光る風
石川はキワモノに仕立てられたわけだ。
もともとがキワモノにもかかわらずさらにもっともっとと。
極道ターミネーターだっ。

やくざ稼業を引退して山口組から絶縁された柳川次郎
彼の決断を後押ししたのは
同じ在日の少女からの「恥ずかしい」という手紙(投書)だった。
こういうのだったらわかる。理解できる。
しかしこういうのは表にだされることはなく
デフォルメばかりされていく。

これじゃあただの人殺しじゃないか!と。

わたしは在日なんて大嫌いだし
二代目柳川組の谷川康太郎の理屈などに
猪野健治みたいに納得などしないけど、
柳川次郎に関しては同情するし感情移入できる。
生きていたなら一度話を聞いてみたいとさえ思う。

そんなわけで名匠といわれる三池崇史監督を
25年前の作品であっても評価しません。
腐った牛乳つーだけ。
以上。あしからじず