あかんたれブルース

継続はチカラかな

障害者と天才と『国家の品格』のおでん種

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 障害者の件、ちょっと違った角度から語ります。
 120万部の大ベストセラーとなった『国家の品格』を読まれた方々は多いのではないでしょうか。
 おでん種でいえば「ちくわぶ」。
 まあ、中身がなくても大好物なので「雑学本」としては結構いけるかもしれません。
 この本の「タイトルに騙されて!」という同志の方々の気持ちを代弁すれば、
 再度、おでん種で喩えて「袋(もしくは巾着)」の中に「餅」が入っていなかった
 ようなものですね。これまた、お揚げだけでも美味しいですが。

 この本について書き込みたいことは沢山ありますが、昨日からの流れからと、
 数日前に先に述べた「日本の恥の文化」にもリンクしそうなので、
 「天才」とか「武士道」について語りたいと思います。

 障害者と天才はマイノリティーという考え方では同種のものですが、対極に位置します。
 教育の格差から費用対効果で目指す月とスッポンの月にあたります。
 (スッポンを障害者と指しているのではありませんよ)

 けれどもこの日本では障害者と天才は対極どころか背中会わせの位置関係にあり、
 それぞれが、差別と偏見にさらされている事実を考えたことがありますか。
 そこには「日本の恥の文化」というのが根底にあるようです。

 このブログで障害者の記事でメキシコで障害者が生まれれば生涯プロレスラーとして
 食いっぱぐれがないとして祝福されるということを書き込みました。
 中央アジアでは健常者の子供を傷つけ障害者に仕立てて物乞いの効率を高めているそうです。
 また、どこかの地域では障害者はその部族の滅亡の危機に遭遇した場合、
 なんらかの役割を担う救世主となりとして部族全体で大切に保護するそです。
 日本にも一部にそういう考えの地域もあるようです。
 ただし、洪水とか飢饉とか天災とかあると人身御供として一発みたいですね。
 障害者と天才と救世主はどこか似ているようです。

 『国家の品格』の筆者は「天才」を求めているようです。
 そして、その天才の産地として日本こそ、今は枯れた炭田だが、ちゃんとやれば黒いダイヤが
 ゾロゾロ輩出するという裏付けを紹介しています。読者にとっては心地よいでしょう。
 けれども、日本という土壌がいかに天才を潰して迫害してきたかはふれられていません。

 日本人は藤原さんが唱えるように知的レベルの高い民族です。
 しかし、日本の社会に「天才」は必要されない土壌があるようです。
 それは国民性というものと「この国」がそれを必要とする危機や必然が少なかったことからだと
 私は考えます。

 現在でも天才と解釈されるノーベル賞候補の学者研究者たちは日本をはじき飛ばされるように
 海外、とくに米国でその研究と受賞の準備に勤しんでいるようです。
 彼らが天才の賞賛を浴びて故国に錦を飾るのは、受賞後か候補にあがってからでしょうか?
 日本のノーベル賞受賞者全12名(佐藤栄作含む)。これが多いのか少ないのか。
 2005年10月時点で776の個人・組織の受賞だそうです。また、人種差別も存在しているようです。
 ノーベル賞受賞だけが天才というわけではありませんが。

 出る杭は打たれる。
 日本の土壌では「天才」さえも杭になる場合は多いようです。
 これまで天才と認められた人々はそのあたりを慎重に上手に世渡りするという
 もう一つの才能も求められたのでしょう。
 天才も障害者同様に差別されてきたのが日本の社会でもあると私は考えます。

 明治期にも多くの天才というにふさわしい人物が出ました。
 勿論、彼らはノーベル賞とは関係ありません。彼らが天才と認知される前後には
 それなりの迫害や無視、もしくは、いまだに認められていない人物もいます。
 また、天才が故の障害を背負う者もいます。そのあたりを書き込みます。続く