あかんたれブルース

継続はチカラかな

理想主義者の挫折の一因

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メディアと民主主義(15)中野正剛


中野正剛朝日新聞の記者でした。
明治四十二年(一九二四年))から大正五年(一九一六年)まで

文筆家としては当代一流の名文家。
その筆は強烈な批判で時の権力者は一刀両断です!
伊藤博文を「ビスマルクに気取る軟弱なる鉄血宰相」と揶揄し、
井上馨を「貨殖候」と罵り、山県有朋には「政党を嫌忌する蛇蝎」と謳った。
桂太郎を「閥族の禍根」とし、原敬を「陰類悪物の徒」とし、山本権兵衛を「守銭奴」といって弾劾した。

人物的には清廉で真面目な人です。
それが、朝日新聞という組織のなかでは合わなかったようです。
社内の理解者は親友の緒方竹虎ぐらい。

けれども、志に燃える中野にとって
そんなことどうでもいい。朝日を飛び出すと政治の世界に猛進していく。
名文家ではあったけれど、演説は下手だったようです。
しかしそれも努力で克服した。
先輩の犬養毅尾崎行雄なんかも最初は演説下手だったようです。
こういのは場慣れと志ひとつでなんとでもなるんですね。

その後の中野の足跡をたどると、ヒットラーを信奉し
議会政治否定・政党解消を主張し
大政翼賛会総務に就任。

なにが中野正剛にあったのか? 変節してしまう。

この過程で、敬愛する恩師の犬養や尾崎にも批判の鉄槌を浴びせた。
この変節はさらに続き、東条英機と正面から対立します。

そして、逮捕された後、割腹自殺をはたす。

なんとも激しい人生です。

ファシスト」から「秘密共産主義」と、その歴史的な評価も様々。

中野正剛は単なる短絡的な熱血漢だったのか?
そういった、彼の性質を表すエピソードがあります。

 中野は幼い頃にカリエスを患い左脚に障害をもっていた。
 学生時代は柔道でその名を鳴らしたわけであるから、さほどの不自由ではなかったはずだが、
 ほんのすこし他人には気づかれないほどのビッコをひく。
 それが中野には許されなかったのだろう。
 四十一歳のとき、家族の反対を退け手術を受ける。
 しかし激痛を代償に得たものは壊疽による左大腿下部からの切断であった。
 手術は失敗したのだ。

中野正剛とはそういう人間です。
自分自身にも、また他者にも、それを求めていった。
清廉で生真面目な潔癖な理想主義者だったんでしょうね。

その理想や志が高いほどに、彼は孤独を呼び込んでしまう。
いまの言葉でいう「上から目線」というヤツです。
彼の査定のラインに達せられない者に対しては小馬鹿にする癖があったようです。

それでも彼は、犬養や尾崎、そして頭山満や古島一雄の大先輩や
朝日では池辺三山や削弓田精一といった首脳陣に愛されました。
通常、こういった愛はある種の「しがらみ」となるものですが
中野は怯まない。
躊躇なく、断つときは断つ。そういったストイックなところがある。
その意味で、中野は己の理想と志に忠実な者です。
中野正剛は「自由」を持ち得るものだ。

しかし、中野は破滅です。

その死を「不幸」と捉えるのは生死観の観点から早計な気もしますが
シビアな表現でいって「犬死」でしかなく、志を遂げたとは決していえない。
なぜ、なんだろう?

そこに中野正剛の「己」にあったのではないかと思う。
その理想と志はあくまでも中野正剛の「己」にあって、
個人的なものから踏み越えないものであたのではなかったか。
つまり、中野は良識派ではなかったのです。

いや、それを超えようとしたのかな・・・
力業のど根性で、荒行で己を発奮させて挑戦し、そして折れてしまった。
反骨の矛も現実の盾に折れてしまった。
中野正剛は、しくじってしまった。

彼の反骨を養った時代背景として
その生年が明治十九年(一八八六年)ということもあるのかもしれません。
そこが、己を空しくできた恩師の頭山満との違いなのかなあ・・・
と、うすぼんやり想いに馳せる。

次元の違いはあっても、こういった中野正剛的な考えは
いまでもありますよね。

ミステリー小説ではありませんが
「そして誰もいなくなる」

これは器用に生きろとか、迎合しろとか、歩み寄れよということではなく
その理想や志に「己」への比重が前にでも後にでも傾くと
破綻をきたすということでしょうか。