あかんたれブルース

継続はチカラかな

混乱してみる。

生死観と性愛観(20)


「近代以前に『愛』は存在しなかった」
無論、これは暴論の仮説であることをわたしは理解している。
しかし、夜這いの文化を無視するわけにはいかない。
問題は「嫉妬」である。

と考えると、現代の愛に嫉妬は必ず付随しているとも考えられます。
執着とか、独占欲。
こういったものを仏教では強く戒めはしますが、
まあそれも出家の坊主の心がけだってことでもいい。
在家の場合はそうもいっていられない。
でも、農村部(日本人の職業比率はほとんどが農民)では
夜這いによって、そういった意識が薄かった。

これは単に性の価値観の相違だけなのか?
日本人特有のレアケースなのか?

司馬遼太郎の『木曜島の夜会』では
南太平洋のオーストラリア近辺の島々の住民(メラネシアとかミクロネシアとか)
が夜、妻を連れて、コンコンとノックしてまわります。
「毎度〜オナゴはいらんかなあ〜」
なんと、夫婦で売春アルバイトをしている。そこに罪悪感なんてゼロ。

また、モンゴルなどでは旅人に妻や娘を馳走しました。
このため梅毒が蔓延して民族が絶滅しそうにもなるという皮肉です。
(日本人だって、「夜伽」といって娘をコンパニオンにしてましたけどね)

つまり、日本だけじゃない。確実に東アジアではそういう価値観だった。
そういうのが是正されていったのが
文明開化による西洋文明の流入であり、これが近代化でもある。
要は「一夫一婦制」であり、富国強兵の「戸籍制度と結婚制度」です。

西洋文明とは、イコールキリスト教文明ってことです。
良いところもたくさんありますが、同時に問題点もある。
どんなモノに長短はつきものです。
ハルジオンさんは美人だけれど、オカマのインド人ですからね。

さて、嫉妬ですが、
もしかすると、この嫉妬が近代的愛の証なのか。と考えてみる。
素朴な民人は執着や独占欲を持ち得ない。
つまり、ピュアな本来の本能的な愛には、そういうものが存在しない。
と考えてみる。

しかし、猿山のボス猿は独占欲の固まりだ。
猿だけじゃない。ライオンだってセイウチだってJJ. だって・・・

「それは種の保存の本能だろ」という人もいるかもしれない。

犬も嫉妬するよね。
二匹いて、片一方を可愛がるともう一方は猛烈に嫉妬する。

ということは、嫉妬も本能寺の変である、であるか。


困ったなあ・・・農村部の民人の精神構造が計れない。

はたしてこれを民度だけの理由で納得させていいものなのか?


話をもう一度遡って考えてみれば、
古代の日本はシャーマニズムで支配され(卑弥呼とか)
女帝の国でもありました。
女性の天皇も多かったですよね。
武家社会が確立して、結婚が武士のステータスとなっても
たとえば、北条政子とか女性上位は続きます。
政所とは「おまんこどころ」という意味があるのだそうです。
武家社会では女性の力を抑える必要があったのでしょうか、
その後だんだんと男尊女卑がシステムのなかで固まっていきます。
はたしてそれが良かったのかどうなのかは疑問です。

例にあげた西洋文明のキリスト教(教会)の弊害も
19世紀から20世紀にかけて強くなり、様々な宗教改革運動があった。
そのひとつに、60年代から70年代のヒッピー文化がある。
そこにはフリーセックスの思想がある。

あっ、時間が来ました。つづきはまた明日