あかんたれブルース

継続はチカラかな

優しさが無力化する場合

喜怒哀楽の「怒」(1)


さて、喜怒哀楽の一番の問題児「怒」であります。
これが故に結果さまざまな支障をきたす。わけで、それを私達は知っている。
昔からこの「怒」を戒めることを第一の処世として参りました。

日本人は、特に現代人はとかく性急です。
「特効薬」「必勝法」「一発逆転」などが大好きです。
また、二元論二極論というか「胡麻」がいいとなると徹底的に「胡麻」です。
かと思うと、その「胡麻」にちょっと矛盾が生じるとダメ出しをして
二度とふり返らない。大きなノッポの古時計の振り子の論理に揺れてしまう。
メンタル的に稚拙でトレンドに流されやすい。

確かに「怒」は厄介な代物ですが、要は喜怒哀楽からし
それを上手に表現することが肝心なわけでして、それを封印の一手で
苦行にすれば・・・自律神経失調をきたすし、また様々な弊害を生んでしまう。

ここでは、「怒」を悪玉と決めつけてしまわないで
科学的にそのメカニズムを検証し、上手な怒りの表し方を考えてみたいと思います。

人間は頭で考えてもそれがその通りに出来ないことがたくさんあります。
要は慣れ、訓練といった体で覚えるっていう方法論が効果的だったりする。
「怒」にしてもそれを封印してしまうとイザというときに
逆にそれをコントロールできないってことがあるものです。

激情というやつでしょうか。最近は逆ギレなんていうのも多い。
「喜怒哀楽」の記事でも書きましたが、
正当に怒れる場と時を外さないことこそが肝心かと思うのです。

イジメについて考えてみれば、
イジメる側は、どこかでそのイジメる対象者が怒らない怒れないと
ふんでいるふしがある。
また、怒ったとしてもさして問題とはならない条件を手にしているかだ。

言論の強弱という話が以前でましたが、
たとえば腕力の強弱もそのひとつです。腕力もまたその条件のひとつだ。
この条件には数量や立場とか環境なんてものがある。

喧嘩を仕掛ける方も、勝てる見込みがあるからアプローチしているわけです。
バリバリヤンキー君でも酒梅組とか東組の幹部に喧嘩を売ったりしません。
かといってねえ、抑止力だとして按摩さんの黒サングラスにダサイ服装で
大股で闊歩すれば別な意味での挑戦者を引き寄せことにもなる。
キリがないのだ。国家も個人も一緒。

この辺の兼ね合いが難しい。
つまり、この「怒」を封印しても解決はできません。というか封印できない。

そういう時に、愛を持ち出す人がいる。
ガンジーとかマザーテレサを引き合いに出したりして、それを説くだけでなく
実践する人も多いものです。
それはそれで偉いものだと思うのですが、どうもそうれとこれとは話が違うようです。

常々思うことなのですが、男女関係で
しぼれば夫婦の間の確執葛藤で「優しさ」というのが万能薬でないケースを
多々痛感させられる場合があります。

好きあって一緒になったはずなのに、いつしか相手の優しさに依存して
非道い言動を行使する人たちがいる。これが結構多い。
こんな場合に訳知りの民政委員とかモラリストなんてものは屁の突っ張りにもならん。
というか、優しさがまったく機能しないんだな。
むしろそれが相手を増長させてしまう要因になってしまっている。
理不尽なことですが、それもまた事実現実だ。

そこでさ、なんでその場そのタイミングで怒らないのか?
怒るってそんな罪深いことなのか?

わたしはどうもそれが優しさとは違うのではないかと考えてしまいます。

不当な扱いを受けた場合、その時、その場で
利害関係が一番希薄な男女間、夫婦間で、なぜそれができないのか?

「怒」には、己に集約したものと、それに社会性を加味したものがある。
社会性とはあくまでも己以外の他の存在を意識したものです。

そこに「怒」に対する怖れや不安があり、はっきりいえば保身もあると思う。
そこで、「怒」を考えるうえで
何に対して怒っているのかが問題なのだと思うのです。

この件、すこし続けます。