あかんたれブルース

継続はチカラかな

こういう感覚は特にレアチーズケースじゃない。



ジギリハイジと「だめんた」はイコールじゃあない。

「だめんた」という傾向・分類のカテゴリーのなかに
ジギリハイジというキャラクターが存在している
という設定ですけんね。

「だめんた」とは「だめんず」の女性版と考えていただければいい。
当然、それには『うぉ〜か〜』が存在しまう。

だめんず」と「だめんた」にはいわゆるジェンダーがあって
だめんず」がメンタルの弱さかや諸事情から
暴力で自己保身・統制や愛の確認作業を行うからといって
「だめんた」が暴力的かというとそうでもない。
どちらかというと自虐的に傾くのかと思います。
なかには暴力的な女性もいますけどね。

ここで難しいなあと思うのは「優しさ」が必ずしも
万能薬でないということだ。
そういうことをわたしなんぞが四の五のいっても
説得力なさそうなので、
慈悲だけでは救えないことは空海の在り方を
裏づけとしておきますね。

ある意味で、「だめんずうぉ〜か〜」の
ぺこむしさんやケメコは「だめんた」でもある。
意外ですが表裏一体というか背中合わせなんだとしみじみと考える。

わたしの知り合いの某女性は若い頃は
こういったダメ男が好きで、わけもなく殴られていたいう。
そういう彼女は典型的な「だめんた」さんだ。
でもね、ふとその横顔に慈悲深い母性を感じてしまう。

そのことは以前もこのブログで記しました。
現代の精神心理学で捉えるられているような
彼女たちを問題児というふうには、わたしは考えない。
とても切なく、また色気を感じしまう。
ま、彼女たちにとってわたしは対象外の生物なんでしょうがね。

それでも、自分は「だめんたうぉ〜か〜」の典型的な部類だと思う。
ただ、それを好むからといって、それで喜々としているわけではく
それはとても痛いわけだ。
だからほおっておけないのかもしれい。

ある人は、それを「S」だともいうし
ある人は、それを「M」だともいう。

いわれるわたしは別にどっちでもいい。
まあ「物好き」だっていう表現が一番当たっているかも。

そういう物好きを無駄とか考える人もいますが、
好きでやっているわけだから無駄なんてことは人生にはありません。
それをいったらゲームだって無駄だし、
結局負けるまで続ける博打や投資も無駄っちゃあ無駄なわけだ。
本人がそれで満足していれば、熱狂できれば、
それでいいんじゃないでしょうか。

まっ、わたしら物好き好事家のことなんかどうでもいいんですが
ひとつ断りを入れておくとすれば、
そこに昨今の「同情」に対する「上から目線」なんて捉え方は
薄っぺらで的外れだと、わたしは思う。

別にわたしらが満たされていて余裕でそういう仏心で
慈善事業みたいにやってるわけじゃなくて
割れ鍋ととじ蓋というか
不完全な自分を保つにそういった不完全な相手が
琴線にふれて惹かれ想いを馳せるわけだから
別に不自由も不自然もなく
まことに在り難い共存共生できる仕組みだと
自然の摂理に脱帽するわけです。

生かされているっていうことですかね。

そこで思うのは
できれば、縁があって出会ったのであるのだから
互いが傷口のなめ合いや、傷口に塩をすりこむ
確認作業に終始するのではく
癒しあい睦あいしあわせになれればいいなあと、思うよ。
そういうものを不埒と考えるならばそこまでで
それはその人の解釈とか世界観の問題だと、思います。
それもひとぞれぞれすきずきだ。
強要なんてしません。
わたしが気になるのは「だめんた」であり
ジギリハイジのことであって
毒島ジギリの手をかりなくても
或伏野ハイジが口笛ふいてブランコ乗ってヤギと踊って
いるなかでペーターのように一緒に踊れたら本望さ。

と思う人は結構いる。いるんだな、これが
不思議なことですが、いるんだな、これが。