あかんたれブルース

継続はチカラかな

暴力教室

暴力を考える(序)


そんなタイトルの映画がありました。
洋画では地味な西部劇スターグレン・フォード
邦画では松田優作が先生役で舘ひろしがちゃらい不良を演じた。

おっと、そういう話じゃない(汗)

暴力について考えてみます。
この暴力に「対する」感情は憎悪と拒絶ですよね。
戦争とイコールかもしれません。

暴力の反対語はなんだろう・・・  思い浮かばない

戦争ならば平和だと思う。
こっちはすんなり出るのに暴力の対義語が出ない。
もしかすると戦争と暴力は異質な、次元の違うものなのかもしれない。

断っておきますが、わたしは戦争も暴力も
それを是と、肯定しようとするものじゃありませんからね。

暴力の暴には
暴く(暴露する)と
暴れる(荒れ狂う)のふたつの意味がある。

わたしの知り合いには暴力を否定する人が多い。
それは良識的であり、正しいと思う。
でも、わたしはそういった考え、主張、姿勢に
ある種の「危うさ」を感じて仕方がない。

それがずっと頭の隅に、喉元に、あるのですが
それを上手く表現できないでいた。

暴力を考える

考えてみて、どうもこの暴力というものは感情が伴っていて

「喜」「怒」「哀」「楽」がある。

喜びの暴力……S的、M的ものでしょうか人間はそれに喜びを感じる。

怒りの暴力……一般的な暴力の感情の在り処ですかね。

哀しい暴力……止むに止まれぬというか、行使する者はその非を知っている。

楽しい暴力……変な表現ですが、暴力の本質が定かでなく
       どこからどこまでを暴力とするかジャレアイとするか
       「ごっこ」がそれに入るか
       ボーダーラインが曖昧なのでみょうな感じでしょうが
       与え手、受け手、によって異なるし
       でも、あるでしょう。

以前、「手と声の輪」のテーマで「喜怒哀楽」がお題になった。
そのときに喜と哀と楽は認めても、怒を否定する人が多かった。
しかしだ、これは人間の感情の分類であって否定できるものじゃない。
確かにそれは結果として「損」するものだけれど
だからといってそれを否定できるかといったら無理です。
否定してもなくならない。

わたしはそのとき、怒りには「感情的」なものと「戦略的」なものが
あるとしてして、者はたぶん不味いとしても
後者もひっくるめて否定しちゃうのは無理があるとした。

なかなか難しいんですよね。こういう提案は
黙っていたほうが丸くおさまります。
たださあ、そういった全部を一網打尽に否定するのは
不味いと思うのだ。わたしが危うさを感じるのは 
そういうところにあると思う。

足をすくわれる。


物事に必ず表裏、長短があるものです。これは、絶対の真理だ。

甘いものは美味しい。でも食べ過ぎると気分悪くなるし
太るし、糖尿病になるだろうし、虫歯にもなる。
逆にしょっぱいものだって美味しい。でも食べ過ぎると喉が渇くし
腎臓悪くするし、高血圧になったする。

ここで、暴力に良い暴力と悪い暴力があると言ったら
お仕舞いですね(汗)。地雷を踏むか、糾弾される。

物事を科学的に捉えれば、良いとか悪いはない。
だから、良い暴力とか悪い暴力なんてありません。

物事を科学的に捉えれば、悪い暴力はないのだ。

納得しない?
あのDVは、イジメは、幼児虐待は・・・・(怒)!

だからその怒りの矛先を俺に向けるようっとおしい

まあそこで怒らない。
別にそれを肯定しようって腹じゃないんだ。
ただ、暴力を否定しても禁じても
それらは解決しません。

戦争と同じだ。
戦争をなくすのに「戦争反対を訴える」という手法が
効果的だと考えられていますが、わたしはそうは思わない。
集団心理、民衆の心はすぐ変わってしまうものです。
とても危ういものなのだ。

戦争や暴力をその憎み、敵とするならば
そのメカニズムを知らないといけないと思う。
臭いものにフタをするだけじゃダメなんだ。

ということで
暴力について考えてみます。