あかんたれブルース

継続はチカラかな

世のケメコたちに捧げる

暴力を考える(6)


だから暴力を正当化するつもりはないのです。
ふたつほど格言から

「力は正義の後ろ盾となるもので、
 力即(=とかすぐとかの意味)正義ではなく
 また、そうあってはならない」

敗戦時の海軍大臣だった米内光政の言葉ですが
血気に逸る若い士官たちをこういってたしなめたといいます。
ここでいう力は「軍事力」であり「暴力」と同じです。
でも、後ろ盾にはなる。
力のない「正義」「正論」「愛」は無力化してしまう
ということでもある。


もう一丁いこう

「悪いことができない人より、
 悪いことができて悪いことをしない人が成功する。
 実業界というものはこうしたものです」

これは『仁義なき戦い悪の金言』の親本でカバー袖に使ったものですが
残念ながら文庫では拾えなかったものです。

このカッコー名台詞を言ったのは
小林一三(阪急・東宝宝塚の創業者)の門下生である
清水雅(阪急阪神東宝グループ総帥)の言葉です。

悪いことを「暴力」に、実業界を人間界、人生に
置き換えてみてください。


今回の特集の動機にはケメコの件がある。
ダメ男に尽くして尽くすケメコの徒労に、ため息が出た。
けれども、こういうケースは非常に多い。
他でもたくさん知っている。
また、それ自体すべてが間違ってるわけじゃない。
彼女たちは女神であり天使であり、豊かな母性の持主だ。

でも、結局「しくじって」しまっているわけです。

なんでだろうねえ。なにが問題なのか、と。


「それでも私はいいのです」

君は、それでもいいかもしれないが、
結局それは、相手を追い込んでしまっている
ことにならないか?

「えっ、あの人を・・・?」


優しさ、慈悲だけじゃ駄目だったんじゃないだろうか、と。
これは空海の慈愛だけじゃ救えないという悟りが裏付けです。
空海は怒りを必要とした。
もしかしたら「喜び」や「楽しみ」も必要なのかもしれない。
喜怒哀楽は人間の感情であり、それすべてを煩悩であるとすれば
仏教では否定されています。ここが、面白いところですね。

物事には必ず表裏があるといったように
優しさが残酷になる場合、暴力になるときがある。
「馬太郎、あなたのやさしさは残酷よ」なんてね(汗)

科学的には物事に善悪、良し悪しはないっていったじゃない!

それとこれとは次元と順番が違うよ。

やさしさだけじゃだめなんだ。

いや、やさしさが駄目なんじゃない。
その質の問題でもあり、
また方法論として、「片手落ち」というのもあり、
ある種の「負い目」も問題だと思います。

仮にそれを母性としての慈悲とすれば
子育てと同じであり、
大人になっても女が男をつくります。

これは相手の問題というよりも
ケメコたちの問題だと思う。

自立する。

ここで結論をだすとすれば、これでしょう。


かなりの確率でケメコがこのダメ男とヨリを戻すケースは高い。
「そんなことはない」とケメコは憤慨するでしょう。
ケメコじゃない人も「また決め付けて」と眉をひそめるだろう。
そういうことを書いてケメコさんが読んだら
気を悪くするんじゃないかと気を揉んで
「だから言葉の暴力団なんだ」と人格を疑うかもしれない。

わたしはこれをケメコに読んでほしいね。

それで悔しくてヨリを戻しちゃうストッパーにでも
なればいいと思います。

また、別にヨリを戻してもかまわないとも思う。
そんときはそんときでトコトンやるんだな、とエールをおくるでしょう。
いまのままでは中途半端すぎて
お互いどちらも不幸であり地獄です。
このままそのままだったらやめたほうがいいし
心気一転、地獄の果てまでレッツゴーの腹ができたら
大いにやるべきだと思いました。

ケメコ、がんばれ。
あとは自分でやんなさい。


以上、暴力についての段

おしまい。