あかんたれブルース

継続はチカラかな

空洞化している正論

暴力を考える(5)


先月の末だったか、
まだ生後数ヶ月の赤ん坊に対する虐待事件がありましたね。
母親も加わったのかどうか知らんが
その恋人の若い馬鹿野郎は「しつけ」という言葉を使っていた。

一才にも満たない乳幼児に、どんな躾なんだ!

暴力から発せられるものに「体罰」から「躾」がある。
(暴力→体罰→躾)
こういうなかで体罰は禁じられたと思うのだけれど
そういう図式、発想でいくと、躾が禁じられるのも
時間の問題のような気がします。

  もっと自由に
  子供の個性を信じて
  ルソーのエミールのように

なんてね

暴力をエネルギーとして喜怒哀楽で分類してみましたが
一転して暴力を「道具」と考えてみる。
刃物とかハサミとか

  キチガイに刃物。

  馬鹿とハサミは使いよう。

そういうことです。
使用上の取り扱いにご注意ください。ぴんぽーん!だ。

つ~たんが、JJ.が、おっじが
暴力を否定するのは
人間の愚かさを知っているからだ。
それを使いこなせないと考えている。からだと思う。
彼らは熟考したんだ。その結果、それが一番良い方策だと結論づけた。

それは正しいと思う。

では馬太郎は間違っているのか?

そうじゃなくて、これは時間軸とプロセスの問題である。
結論は暴力は使わなくていい。
つまり、熟練すれば、刃物を使わなくても料理が出来て
ハサミを使わなくてもワンピースが作れるだろう。

しかし、私達はまだ発展途上にあって未熟だ。
まず、順番としては、正しい刃物のあつかい方
ハサミの使い方をマスターする必要がある。
それを危険だからと取り上げてしまっても
結局なにも進歩しません。

  子供の火遊びで火事になったから、
  じゃあ百円ライターを規制しよう!じゃ、だめなの。


もっと不味いのは、それを持って悪用したり
見せびらかして「どうだいいだろう」と
特権にされてしまうことだ。
(暴力には権力や関係性や、それに腕力だけじゃないからねえ)

だから、性急に解決させようとして
こういった達観思想を持ち込むのは「毒」になると思う。
そのなかの矛盾から背を向ける者たちも出るだろう。
下手すると暴力が信奉されかねない。
ガンジーを見よ」といっても
もう誰もしらないよ。
それにそれとこれとは話が違う。あれはひとつの戦術であって
考えようによってはあれも際どい暴力である。

わたしが「危うさ」を感じるのはそういうところだと思います。
そこがストイックだと指摘する所以だ。

わかる人だけがわかればいいいなんて
悠長なことはいってられない。
壊れていくものは、今も現在進行形であるわけで
それは被害者も加害者も傍観者もみんなすべてにいえる。