あかんたれブルース

継続はチカラかな

知性と意地悪



知性を忌み嫌うひとつの理由に
それを売り物にする人たちの甘さというか深みのなさに
理由があるのではないだろうか。

鼻持ちならないヤナ感じがあるのかもね
決して知識は邪魔にはならないものだけど
それをひけらかしたり、相手を面罵する道具にするのをみて
そうまで努めてそれを得てもロクなことにはならない
ということもあり、

カムイ伝』で狂人を演じていた百姓のオヤジのような
達観、もしくは処世というよな違うような

それは昔の人が小才や才子を嫌ったことと
通じるのかもしれないし

はたまた途方のなさを感じて「一抜けた」なのかもしれない。


歴史的な考察として、
日本人の知的レベルが爆発的に向上したのは
幕末のカルチャーブームがまずそれだ。
次が
維新後の文明開化(西洋文化の流布)からの
日清戦争前後の明治20~30年代で
このとき日本の新聞が様変わりしました。
それまでの大新聞や小新聞が合体して
中新聞になった時期です。

そして、インターネットの普及による今現在だ。
いまはその第三期かの過渡期にある。
ところが、その指針となる「知性」というものを
見失っている状況の過程でもある。

ネットの匿名性もあって
好き勝手なことをいうことが、相手を誹謗中傷することが
本音であり知性であると履き違えている。

嫌味を知性だと履き違えている。
穿った見方が知性だと勘違いしている。

底意地の悪さが流行っておるわけです。
オスギとピーコとかオカマタレントのそれが、それです。
これは多分に世知がない世間を憎むところに発端があって
そのための予防線のようでもあります。

こういった知性は幼い。

オカマ→タモリ→たけし という毒舌の変遷なのか
わかりませんが、少なくともたけしのそれは少年のようで
その毒舌にもチャームがありますが
オカマはすでに老錬していて
幇間の客には面白おかしくても、そうでない人には
嫌悪さえ感じさせてしまう。

こういう底意地の悪さは本来は女性の専売特許です。
おんなの本性といっても過言じゃない。

ところが、
正攻法の意地悪なおんな
というものには色気がありまして
そういった世間を憎むいじらしさがある。
それを商品とするオカマタレントにそれはない。ありません。

マツコデラックスでギリギリセーフかな。
マツコも最初の頃とは変わってきましたよね。
たぶんああいうノリがもう古いことを察したんだな。

それでも中村うさぎとか西原にはかなわない。
彼女たちはれっきとした女だから、でしょう。
こういった本物志向の知性に変わっていくと思います。

それはね、毒舌だろうが毒ガスだろうが
嫌味だろうが罵倒だろうが暴言だろうがなんだろうが
そこに愛があるかどうかだと思う。

中村うさぎや西原にはそういう知性がある。
細木数子にはない。

これはひとつのトレンドなのでは、と思うのでした。
いや、プロセスだな。