あかんたれブルース

継続はチカラかな

魔法使いの魔法の正体

知性の行方(序)


日本人の知性の向上を幕末、日清戦争前後、
そして現代としました。

とは別に、現代日本人の変容をわたしは大阪万博として
過去何回か記事にしてきた。
コクリコ坂から』の制作発表で宮崎駿はそれを
東京オリンピックとする。
どっちが正しいのではなく、段階的さまざまにときどきに
日本人が変容している、と考えるのが正しい。
だから、バブルでもその崩壊でも今年の震災でも
日本人は変化しているということです。

あくまでも比較論として、
日本人は豊かになりました。
豊かさは人間を稚拙幼稚にする。これも自説持論暴論ですが
その弊害にはふたつの意味合いがある気がします。
ひとつは、知性の拡散です。
もうひとつは、(知性)発展進歩のプロセスです。
全体的には知性は高まっている。
広がったぶん薄まってみえるのかもしれませんね。
こういう段階を経て、日本人はさらなる進化を得るのかも。

課題としては、この情報多寡をどう整理するかでしょう。

この連載は知性をテーマに「暴力」から発して
「呪い」に繋げようとしています。
どうも年をまたぎそうな按配ですねえ(汗)

サクサクいきましょう。

司馬遼太郎はその著書のなかで
「日本は昭和に入ると魔法使いが魔法の杖を叩いて
 まったく別な国になってしまった」と述べている。

その時期は昭和十年~二〇年
これを「魔法の十年」というそうです。

普通、だいたいの人はそれを軍国主義と考えるでしょう。
そりゃそうだ。が、問題はなんでそうなったか、です。

現在よく耳にするのは「失われた十年」ですね。
それはバブル絶頂期との比較で
いまだに「損」をした、という喪失感がある。
この文言を使うエコノミストや日経の記者は
いまだに未練たらたらなわけだ。いまだに経済至上主義の信奉者なのだ。

もう古いんだな。そういう捉え方は
そういうのはうつでひっくり返っているかおりくんの発想と同じ。
時間は後戻りなんかしません。
もう一度あの栄光を、と考えることが不毛なのだ。
こういう発想手法では絶対に麻雀ではあがれない。
競馬では当たりません。ババしかつかまない。

今日の午後にサイゼリアで会う高田のオヤジの持論は
「東北大震災以前の評論批評類の資料は使えない」といっていた。
この人は競馬とパチンコに狂ってますが頭は良い。
彼がいうように新しい価値観でないと通用しないのだ。
本来そういったものは経済界がリードしていかないと
いけないのですがどうもこれが怪しい。
馬場不良の中山2000メートルのハンデ戦だっていうのに
本命馬に賭けようとしてる。

とてもじゃないけどついていけない。

さて、この魔法使いの魔法の杖って何か?

わたし思うに、近代化だと思う。
これって達成された過去のものではありません。
いまだ、進行中で、私達はその途上にある。
司馬さんはそこを見誤ったのではないかと思う。
だから、昭和を書けなかったのかもね。

近代化には商工業経済の発展というハード部分と
民主主義とか人間の暮らしぶりなどのソフト部分にわかれる
私達のそれはどうも前者の方だけに目がいって
後者のそれがお留守になってしまった。

だから豊かになっても誰もそれを感じない。
いや、幸福感のことですってば。

魔法使いの魔法っていうのは
「呪い」です。呪縛ね。
これは近代化の呪縛なのだ。
正しく使わないから呪いにかかってしまった。

呪いは解かなければならない。