あかんたれブルース

継続はチカラかな

隠れ宿天城越え

考える葦たち(アホ寮学級-2)


それは野田聖子のエゴなのか?
賛否がわかれるなかで
ルイちゃんの「わたしはそんなに割り切れないよ」
という魂の叫びだ。

彼女の体験談からのその言葉には説得力がある。
テイヘンを行く。
http://www.digbook.jp/product_info.php/products_id/13809
よかたら読んでね。

さて、わたしはそのエゴに煩悩という言葉重ねてみる。
仏教ではこれを戒めるけれど、
それを封じることは、まっ無理筋というものです。
悩んだあげく親鸞聖人は浄土宗に奔り浄土真宗を生み出し
「他力」、他力本願というものを唱えました。

その他の日本仏教はたいがい自力本願です。

一般に辞書にも出てる、また私達が用いる他力本願は
相手まかせというか受身的なことをいいますが
これは真宗の他力を揶揄したことから生じた言葉です。
誤った解釈ね。

本来の他力の
その解釈・解説はちょっと難しく
わたしなんぞがやっていいのかどうか非常に問題ですが
話半分で聞いてくださいよ。何かをみてなんて
そんなめんどくさいことはしない人ですから

自力本願とは自分の力で努力して鍛えて修行して
本願達成というか悟りを開くとか仏の教えを知る咀嚼達観する
みたいな感じです。

JJ.がエッチ動画でオナニーするのも自力本願(不味いかな)

ところが、真宗はそうじゃない。
すべてを仏にすがる帰依するまかせてしまう。
そのために仏の言葉、仏の名を、念仏を、唱える。だけ
これを他力本願と申します。と

JJ.が念仏を唱えて知らぬ知らぬ間に夢精してら他力本願?(不味いかなあ)

自力本願がそう悪いもではないような気もする
というか当たり前ですよね。
何かの目標目的のために修行して努力して
それを達成するわけですから。

対して他力なんていうと・・・

ところが、親鸞は、真宗は、それじゃあ解決しないんだと説く。
解決するどころか、違う過ちを犯しかねない。
あんまりいうと多くの仏教関係者から糾弾されそうなので
これくらいにしておきます(汗)
ここは宗教ブログじゃない。

たとえば、わたしは己を空しくすることを説く。
割合にこれが他力と御近所のような気もします。
人間って代物は驕りやすい生き物でこれが故に
ついつい道を誤ってしまうものです。
自力思想にはそういった罠があると考えてみるといいかもね。

で、エゴだ。
利己的、利己主義、自分だけは、自分さえよこれば・・・
ものすごおおくストイックな考えですが
宝くじを買う。占いを信じてラッキーカラーのワンピースを着る。
こういったのも自力だそうです。
で、幸運をゲットだぜ。これがああたその
利己的、利己主義、自分だけは、自分さえよこれば・・・
となる。
そこまでは言いすぎだよ、と思うかもしれません。

因みに100万円当たったらハッピーです。
でも、みんな100万円当たったら、そうでもなくなる。
というか、聞くところによればみんなは200万円だったという
ここで一気にアンハッピーに転落。
100万円の損ということになってしまう。これが人間だ。

幸せは自分だけ、だからこそ嬉しいわけだ。比較論だね。

本来こういう発想はおかしい。
それをJJ.は説いているのですが、なかなかどうして
みんな聞かない。日頃のあいつの行いも原因ですが
やつのいうところは正論なのだ。

みんな100万円じゃあ面白くない。

で、そのなかに、奇特な人がいて
自分は100万円はいらない。せいぜい45万円あれば
車検も新しいコタツも壊れた電子レンジも買い換えられるとして
55万円をその面白くない人にやった。

もらった人は三日間はハッピーでした。が、
四日目からこの155万円をなんとこ200万円にしたいと
思うようになって夜も眠れなくなった。
で、なんだかんだ努力して200万円にしました。
喜んだのつかの間、今度はそれを300万円にしたい・・・
結局どこまでも満足できない。というか
目減りすることがイヤです。
老後の備えも心配だ。不安で不安で仕方ない。
満たされないのです。

キリがない。

端でみてる人は岡目八目でどこかで手を打てばいいのにと
思うでしょうが、それは他人事だからいえることで
実際に自分がこの罠にハマッタら同じ轍を踏むものだ。

自力にはそういう罠が潜んでいるのだといいます。

ま、他力にしろ自力にしろ
解釈の仕方、加減なのですが、往々にしてこんな漫画みたいな
ことが現実を支配している。
二元論二極論白黒はっきりしてよ論がこの世を支配しているのが
現状の社会のありようである。

ひと昔前に「玉虫色」っていう表現があって
これが曖昧さを嫌うスローガンとなった時代がありました。
そんなこんなで
背広やコートの裏地にも使われていた玉虫もすっかり廃れた。

玉虫色の発言の問題は、どっちにでも取れる
責任回避の保身からのものですが
それを憎むあまりに、
日本人は鮮明なツートン思考を尊ぶようになった。
同時にそれは稚拙化幼稚化でもある。

世の中そんな単純ではいし、複雑でもない。

「ほら玉虫色!」

と、こうなるわけだ。

わたしは野田聖子のことをどうこういってるんじゃない。

つまり、野田聖子は弱者か強者か
(爺は強者か弱者かの流れから)
その選択は他力か自力か
読み間違わないでくださいよ。これは白黒つけようって
話ではありませんからね。

でね、なんとなく他力って甘い思想のように思うかもしれません。
危険だといわれる老荘思想のように受け取る人もいる。
でも、そうじゃない。
ある意味でシビアで無常(無情じゃないよ)で
なんか別次元の価値観なので
真宗の坊さんでもよく理解できないという代物だ。

ただ、現在の世の中がある意味で自力でここまで
やってきて、行き詰ってきてる現状から
この他力ってやつをもういちど考えてみるのもいいのかなあ
ってわたしは思ったね。