あかんたれブルース

継続はチカラかな

徳利のようなもの

魔と呪(2)


私達、特に男子は「器」というものを意識するものです。

英語でいえばキャパシティーってものでしょうか
その器の大小、つまり大きさを問題にする。
許容範囲というのでしょうかね。
包容力とも解せらば女性も身をのりだすでしょうか。
懐とすれば深さを査定します。

器というものをイメージすると
これまでわたしはドンブリみたいなものを想像していました。

すり鉢のような大きなものから
茶碗やお猪口みたいな小さなものまで・・・

最近その器のイメージに対して
ちょっと考え方を改めております。

どうも
入り口が狭くなっている
徳利みたいなような、一輪挿しの花瓶のようなもの
のようなもんじゃないかなあ、と。
その入り口が広ければドンブリみたいのもアリでしょうけどね。

器の大小よりもこの間口の大きさが非常に重要ではないか。

大きな器であってもこの間口が小さい、狭ければ
内と外との風通しがよろしくない。
無論、社会性とはその間口を調整にあるわけですから
個人と世間(外界)との関所造りは成長のプロセスだ。
咀嚼できないものを何でもかんでも入れると
お腹を、いや器を私達自身を壊すおそれがありますからね。

ただし、それを必要以上に狭くして
自己防衛に奔ると循環が損なわれて弊害がうまれる。

昨日の中島知子の話に戻して
では彼女はその間口が全開でカレー皿みたいな状態だったのか?
じゃないとそんな占い師にマインドコントロールされるわきゃない
と思うのですが、そんな感じじゃないですよね。
ソースが芸能ニュースで恐縮ですが
どうもその逆で人間不信に陥っていたみたいです。
とすれば、
その間口はキューッと狭まっていたはずだ。
直径5ミリぐらいとか。

そのわずか5ミリから入り込んだんですね。
だから「これだ!」って思って信じてしまった。
波長があってしまった。

どういうものを求めて世間や社会の窓を開けていたか。

ここが肝心なのです。