あかんたれブルース

継続はチカラかな

曼陀羅の人



といえば空海弘法大師です。

弘法も筆の誤りという言葉が残っているように
達筆の方でもありました。
あほ寮で字が上手いのはよし姉さん
下手なのはJJ.
紙一重とはいってもアホにも得意不得意があることを知ります(笑)

インドの曼陀羅を拝見すると
中央で象のかぶりモノの聖人(たぶん)が美女とセックスしている。
わたしはあれが不思議でねえ・・・
悟りってものは、セックスを通して得られるものなのか?
そんな漠然とした疑問を感じたものです。

それ以前に、あれはたしか中学坊時代だったと思うけど
東映の併映(B級)作品に若山富三郎の極道坊主シリーズ
があって、その第一作で(確か二作しかない)

極道若山坊主がやくざから娘を助けてやった。
なんか借金のカタに女郎に売られるところを大暴れして
助けたですよ。よくあるパターンですが、
問題はその後。
助けた娘を自分で犯してしまう。
それを知った善良な百姓が、なんてことを!と詰問すると
若山坊主は涼しい顔で、あのまま助けなかったら
もっとヒドイ目にあったとかなんとか
堂々として酒をあおって開き直ってる。凄い理屈
だけれども、そのとき画面の端に映った娘の表情が
いや、娘じゃない女になっている。
その女の表情がなんとも・・・妖しいというか
そして若山坊主の完全なオンナになっている。
恨んでなんかいない。憎からず、ってところです。

フェミニズム的な映画評論でいけば
「男が作った映画!」で斬り捨てられるのでしょうが
はたしてそうだろうか・・・
30年以上そのことがたまに頭をよぎったものです。
五社英雄の女の情念なんてそんな薄っぺらいもんじゃない
そんな気がして仕方がなかったものです。

八切留夫は北政所北条政子の政所(まんどころ)を
「まんこどころ」からきているとユニークな史観を展開させている。
もしかしら曼陀羅もそういうニュアンスから・・・
なんていうと真言宗とか仏教関係者から叱られそうですが
別にセックスが悪とかダメって!いったい誰がいえるのか?
それこそ不自然じゃないか。

ただ、手前勝手な欲求とか一方的な、暴力的なものでは
若山坊主の足元にも及ばないんじゃないか
つまり、娘をああいう表情にはできない。
ましてや曼陀羅の中央になど座せないんじゃないかと思う。

インド人も馬鹿じゃないんだから
たんなるスケベやイタズラ心やウケ狙いで
わざわざそういうものを崇高な図画の中央には描かないと
思うよ。普通そう思うよね。思わない?

そういうこと気にならない?

わたしはそういうことばっかり気になって
仕方がありません。


変でしょうか