あかんたれブルース

継続はチカラかな

個人の行方は閉塞か肥大か

子供王国(10)


昨日の記事、大阪心斎橋の通り魔事件に対して
(事件自体が)理解できないと
JJ.からコメントをもらいました。

こうゆう事件はまったくわからんですよ。どういったプロセスを歩めばそこに行き着くのか…まったく理解不能ですね。それ程までに周囲の人間関係において信用のおける人や言葉がなかったのでしょうか?犯人も内面に内面にへと感情を押し込んだのが問題だったのでしょう。単なる精神異常では済まされないです。

魔がさすという言葉がありますが、何かにコントロールされたんじゃないかと思いたいくらい、この類いの事件は謎ですね。

教育改革で格段に可能性が低くなるなら、ぜひやるべきだと思います。


わたしなりの考え、あくまでも私見として
記事にしてみます。

結論からいって、これは「個」の肥大化にあると思います。

この個というのは個人とか個性とか、「私」、自己、です。
ヒンドゥー教なら個我アートマンとか

対して、尊重とか探求とか育成とかいわれ
個人主義が信奉されてきました。
日本は本音と建前を使い分けるのが顕著でして、
また、その解釈も極端だったりします。
納豆が良いと聞くと店頭から納豆がなくなる。
けれども飽きやすく、高野豆腐がいいと聞けば高野豆腐に
心変わりもはやい。

民主主義も言論の自由個人主義もなにもかも
こんな感じで履き違えられて、
ここまできました。

そのツケがまわってきたわけです。

個というものは、自我ですね。
自我は養われ成長していくものです。

それは社会性と向き合うことで養われます。
両親などから教わったり、
しつけられたりして育まれていきますが
つきつめればそういった社会性を自身が受け止めて学ぶわけだ。

個は探求するものです。
そして、成長していく。

内側に探求やがあってこそ、外側に発展していける。
このふたつがうまくまわって循環して稼動し
個は発育し、発展していきます。
表裏一体なのですね。

内側のそれは煩わしいものかもしれません。
悩みとか考察とか反省、それを厭い流行らない時代が続いた。
外側の発展とはある種の冒険ですから
さまざま危険がいっぱいです。

衝突や失敗や挫折など、傷つくことが多い。
自と他の間に隔たりがあって矛盾が生じるわけだ。
本来ならそれをテーマに内側で咀嚼して
解決させていくものなのですが
それがない。

それでも個は成長を余儀なくされます。

そういう不全から閉塞感がうまれ、身動きとれなくなる。
そうなると神経も失調するでしょう。
個人主義というものを履き違えていますから
個は孤立し、そして肥大していきます。

むき出しの個が外に露出していくので
そりゃあ当然、傷つきやすい。
赤ちゃんの肌、粘膜みたいにデリケートだ。

それを守らないといけない。
必至にそれを守ろうとします。
権利とか知識とかお約束とか、固定観念とか
社会的な地位とか暴力とか・・・

キレやすい、逆ギレするとかその現象です。
駄々こねる子供のヒステリーと同じ。DVもこれだ。
やくざにDVする人は少ない。相手を選んでいる。

個がママで通そうとする。

自己中心とか、身勝手な発想言動はここから発しています。

はやい話が驕りですね。

本来、驕りというと強者の専売特許のようですが
これは強弱関係ありません。
弱者もその弱さを武器に驕ります。
弱者のふりを装う、かな。
これは人間の特性ですから、ちゃんと身を修める姿勢がないと
誰でも腐食していくようになっている。

日本人のなかで問題になっている
モラルハザードはこれです。

それに教育が、環境が、風潮が、拍車をかけた。

結局、そんな不自然な個の肥大では
無理が生じる。
辻褄があわなくなる。追い込まれます。
それを改めなければ、改めるまで
追い込まれて最後は絶望し破滅する。

その在り方も最後まで身勝手で自己中心的だった。


ノストラダムスとかマヤの滅亡の予言ってありますよね。
期日をきってのもの。
でも個人には関係ないんだなと思ったりします。
1999年の6月にレバ刺食って死んだ人にとってはそのときがそれで
2012年の1月に餅を喉に詰まらせて死んだ人はそのときがそれ。


個が特化し過ぎてる。
個は尊重すべきものだけれど、だったらなおのこと
もっと大切に養育しなくっちゃいけない。
だれが?

自分自身がですよ。
もっと真剣に生きないと後が大変ですよ。
世の中甘くないっていうことはそういうことです。
とばっちりを受けることだって多いわけです。
自分さえよければなんて思ってたら
とんでもないのがぶつかってくる。
そういうものです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・
己が強すぎるのだ。