あかんたれブルース

継続はチカラかな

近衛と朝日と焼き討ち事件

村山さん、弾はまだ残っとるがよ(13)


近衛家とは公家の五摂家のひとつで
天皇家に次ぐ格式を有する名門ですが、
明治から昭和にかけて
この近衛家の当主であった篤麿と文麿という親子は
数奇な運命で日本の近代史を飾っております。

近衛篤麿は政治家でもあり、中国政策を非常に重視した。
このままほおっておくと清国は分裂し、列強に分割される。
そういう危機感から同文会を立ち上げ、
これが犬養毅の東亜会と合併し、東亜同文会となり、
近衛篤麿は会長に就任する。
明治を代表する大陸運動のリーダーが近衛篤麿だ。

その息子、近衛文麿は台頭する軍部を抑えるために
多くの有識者の期待を背負って三度、内閣を発足させた人物。
昭和研究会というブレーン集団が近衛を支えました。
この研究会は学者、官僚、政治家など
日本の頭脳が結集しましたが、
朝日新聞記者も多数参加していた。


さて、篤麿に話を戻して
この同文会や東亜同文会にも政治家、実業家、言論人、
そして活動家いわゆる大陸浪人などが参加してたんです。
黒竜会を立ち上げる内田良平なんかも参加してた)

いまだったら右翼団体なんていう人もいるでしょうかね。
しかしそれをいったら明治人は全部右翼だぞ。
それでもいいのか?


さて、近衛家から朝日新聞の関係に移ります。

朝日新聞に入社した大型新人池辺三山も
篤麿の同文会、東亜同文会に入っていました。
というか主要メンバーの幹部です。
三山のスタンスはまずここに立脚している。

外務省の山座円次郎や参謀本部の依頼で
満州を調査していた鶴岡永太郎のリポートを
満州通信」として『大朝』に連載したのは
池辺のはからいなのです。
この鶴岡の発案で日露戦争満州義軍が誕生し、
鶴岡自身も軍師として従軍するのです。
日本人隊員はほとんどが玄洋社

そういうわけで、池辺はたんなる新聞記者、編集者ではなく
政治活動に密接に関係していた、プレイヤーだった。

その池辺は日露戦争に賛成というか
むしろ積極的にロシア討つべしと東西朝日の紙面で訴えた。
池辺は制作現場では朝日一の力を持ち
東京朝日新聞社に陣取って、さまざまな政界工作を働いていた。
まさにプレイヤーなのだ。

なかでも桂太郎とは昵懇の間柄で、蜜月関係にあった。

それが一瞬に破綻する。

それは日露戦争勝利によって、
ポーツマス講和条約受け入れという
戦争への終止符が打たれたことからだった。

この条約は、一見日本側にとても不利な条約だったので、
学者も新聞メディアも、そして民衆も大反対を叫んだ!
もっと戦争を続けてロシアを占領しろおおお!

池辺もその一人

冗談じゃない。日本にはもうそんな力は残っていないんです。
それを彼らは知らないのだ。
池辺も知らない。

  知らないというか冷静に考えればわかることだ。
  財政問題は開戦以前から秋山定輔が指摘していたわけだ。

政界にどれほどのコネがあろうとも、桂と昵懇の仲であっても
この明治三大記者といわれ朝日新聞の顔だった
池辺三山はそれを知らないし、理解できなかった。
講和条約に反対したのです。

これは大きなことです。

もう一人の大記者徳富蘇峰は講和に賛成し、
民衆から国賊と批判され焼き討ちを受けた。

あの過激集団の玄洋社でさえも消極的な態度に変わった。
毎日新聞も割合と冷静だった。この差は・・・

不思議な話なんですよ。

非戦派だった秋山定輔は一転戦争続行講和反対なのに。
朝日(池辺)の論調はイケイケのままなんだ。

なぜだと思う?

答えはここ、ここよ、ここ。
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