あかんたれブルース

継続はチカラかな

会津小鉄の会津はどこから



この明石屋万吉が播州小野藩の将軍警護役の助っ人に
なったときに、見届け人として登場するが会津小鉄

この人物も有名な侠客で浪曲の演目にもなっている。
会津出身じゃない。大阪の人。
水戸藩士と大阪中ノ島の商人の娘との間に生まれた私生児とか
16才で人を殺め無罪になったがこれを機に堅気の生活を捨てた。

京都の会津藩邸の中間部屋に出入りするようになります。
これが会津小鉄会津の由来なんですね。

以前、武士より強かった
中間・駕籠持ちなんて記事をアップしましたが
都市部の武士はまったく強くない。
というか喧嘩刃傷沙汰を起こしたらお家断絶ですから
喧嘩なんかできません。虚勢されてしまったんだ。

また、中間などが重宝がられたのは
参勤交代など幕府の政策で大名家は経済を圧迫され
すこしでも経費節減しようと非正規従業員を雇った。
これが中間や駕籠持ちたちです。

これらは喧嘩、博打などが大好きな不良ヤンキーで
屋敷の中間部屋を賭場にしたりしていたわけです。
奉行所もなかなか取り締まれないので好都合なのだ。

さて、小鉄は京都二条新地で一家を構え、
会津藩中間部屋頭の片腕として、幕末は会津藩側で行動した。
佐幕派侠客なわけです。

明治18年に死去し、葬儀には明石屋万吉も駆けつけた。
万吉が死んだのは大正6年です。
酒井栄蔵に跡目を継がせてすぐに死んじゃったんですね。

会津小鉄は実子の(上坂)卯之松が継ぎましたが
そこで(昭和10年)絶えてしまう。
戦争という時代では博徒は生きられなかったのですね。

現在の京都に君臨する会津小鉄会は1975年(昭和50年)に
中島会の図越利一会長によって名跡が復活されたもの。
直接の流れでは繋がってはいませんが、ここから三代目となる。
むかし図越さんの自伝を読みましたが
なんで会津小鉄なのかわからなかったのだ。

因みに
グリコ森永事件のキツネ目の男と目されて騒がれた
宮崎学は中島会系の土建業任侠団体の家の人です。