あかんたれブルース

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ポン酢醤油のある家

幸せ考(1)


なぜ生まれてきたのか?

今ではさっぱり流行らない、既に死語となった哲学
のような問いかけですが、これが人間(人生)の命題だ。
それを、「幸せになるため」としました。

人間は幸せになるために生まれてきた。

では、幸せとはなにか?

幸子はそれを
見たことない珍しいものや美味いものを食うこと
と言い切るけれど、まっそう考える人は多い。けれども
そのうち幸子は食い尽くす。体重もあの身長で大台を超えた。

馬太郎はそれを
愛を得ることであるとしました。

愛があれば人間はハッピーなのです。
この世で人間が得られる最高の歓びなのだ。

この愛というものを、即、恋愛と考えるのは早計です。
親子の間の愛、家族愛とか、友情や師弟愛とか
人間同士だけでなく愛はさまざまなものに宿る。
それは形のないエネルギーのようなもので
強弱があります。

ただ、わたしたちは愛を一応は認めても
それが漠然としていて、曖昧で、どっかできれいごとに
感じてしまう。また確固たる確信もないから
どこかで懐疑的だったりするものです。

それじゃあ不味いのだ。
せっかくの幸せのチャンスを逃すことになる。

世の中を運、不運という偶然性を言い訳にして
納得しようとするけれど、それじゃあつらくなる。
そういった媚に天は哀れみなど与えません。

愛について、今現在のわたしたちが知りえることは
それが、うつろいやすく儚いものでるという認識だ。

愛は陽炎

なんて歌われる。

しかし、それを科学的に捉えれば
その愛はうつろいやすく儚いものであっただけで
エネルギーとして弱かった、だけであり。
平坦な舗装道路は運転できても
ちょっと坂道になったらエンストした、だけのことだ。

どんな人生でも起伏があります。
人間は平坦な人生を求めますが、そうは問屋は卸さない。
たとえ、お金があってもどうにもならないことがある。
結局、その坂道をのぼるには愛がなければ、できない。

その愛を否定するために
敢て坂道をのぼらないというアイデアをひねり出すものもいる。
なにがなんでのぼらないといけない
というものではありませんからね。
それはその人その時々のそれぞれの自由。
けれどもどんなに迂回してもその先にはいけない。
行かなくていいものであれなそれでいいでしょうが
ぐるぐるまわっていくうちに澱んでしまって
閉塞感に陥ってパンクしてしまうものも多いわけです。

たださ、人生は有限であって
わたしたちに与えられた時間には限りがあります。
のぼるべきときにはのぼらなければならない必然が
きっとあるはずだ。
四の五の屁理屈をいって逃避してしまうことが
本当によい選択なのかどうか?
それは他人がどうのこうのいうことではなく
自分自身の責任として考えなければならい。

その手立てとして知性と感性が必要で、それを哲学といった。
また、それを実行するには勇気が必要であり
その勇気の拠所になるのが、愛なのだと思う。

愛はね、自分のことを優先させない。
愛するものを優先させます。

そうすると不思議と自己愛が芽生える。
不思議でしょう。
自己愛が己を空しくすることで得られるなんて。

だから、無償の愛と自己愛は決して矛盾しないのだ。


それでも、愛がわからないという人もいます。
わたしはそういうときに思うのですが
愛はわかるものではなく、感じるものだと。
また、そこに誤解があるとも思うのは
たとえ愛がわかったとしても
それで愛を得られることにはならない。
知ることと得られることはまた別な話です。
それでもまずその存在を知り、感じることが大切だ。
それが知性であり、感性であり、
信じること行動に移すことが勇気であると思うのです。

長くなったので今日はここまで


(本日の名言)

猫の様に独りで喰ってイケない

杉山茂丸『俗戦国策』より