あかんたれブルース

継続はチカラかな

優秀と有能



わたしたちは
考える知性と感じる知性を有している
といわれます。
前者はIQで捉えられたり
後者をEQもしくは感性と表現したりする。

もともとIQとは第一次世界大戦のとき
急遽参戦することになった米国で
下士官を養成するために採用されました。

調査したところIQが高いからといって
仕事で有能であったり成功する
わけではないそうです。
逆にIQの高い人は社会に出ると
「平均化」する傾向がある
という調査結果が報告されている。

知能指数(IQ)とはなにか?
わたしたちの知能を器とした場合
その許容範囲を表すメモリみたいなものです。

どんなに大きな器もっていても
活用しなければ意味がない。
知能指数(IQ)が高いというのは
頭が良い、ということにはなりますが
優秀だとか有能とは限らないわけです。

どこまでつめ込められるか?

日本の場合は戦後復興の急遽から
偏差値によって人材を「選別」しようとした。

IQと偏差値は似ているようですが
違うわけです。
どれだけつめ込められるかと
それをペーパーテストでどう発揮するか
これが偏差値です。

当然、IQ同様に偏差値が高くても
優秀とか有能とは限らない。
ましてや会社や社会で成功するとは限らない。

「そんなことわかってる!
 だから安定した一流企業を目指すんじゃないか!」

一見、理にかなってるようですが
なんか変な理屈じゃないかなあ
とわたしは思う。
ま、そこに収入とか福利厚生などのオプション
社会的な地位(ブランドイメージ)などなど
があるのは理解できるのですが
なんか釈然としない。

端っから自分の人生をコジンマリさせている
ような気がする。というと
「人生は、現実は、厳しい」という
答えが返ってくるものです。

なんかその厳しさって
もっと違うんじゃないかなあ?

なんのために生まれてきたのか?

幸せになるため。

どれくらいの人がこの答えを
否定できるものなのか。

多様化という言葉用いられますが
実際は画一化が浸透している。
はたして厳しい現実社会で
いつまで一流企業がそういう人材を
優秀有能と認め、必要とするのか疑問であり
また、いつまでその一流企業は一流でありえ
存続していけるものなのか
そこにこそ現実の厳しさがあると思うのですが


歴史を眺めていると不思議な現象に遭遇します。

鹿児島の中央駅からナポリ通りを
甲突川に沿ってほんの数分
橋をわったところが加治屋町という地域です。
この地域から幕末・明治期にたくさんの
優秀有能な人材が輩出された。

変だ思いませんか?

なかには薩摩閥の利権構造と批判するでしょうが
西郷隆盛から従道、大山巌大久保利通
吉井友実山本権兵衛東郷平八郎五代友厚
黒木為禎野津道貫などなど
まずここにあげた人物を否定できるものは
そうそういません。

人間の知能とか能力ってあんまり
大差はないのだ。

じゃ、なんでこう差が生まれるのか?

環境とか、場に尽きる。
そしてその人の姿勢。
そういうものを育むのが愛であると。