あかんたれブルース

継続はチカラかな

愚痴について



ひと昔まえ、特に女性陣から
そのなかでも比率的に元ヤンキー系
みたいなタイプのものたちが
「人の悪口はいわない」と啖呵をきっていた。

よい心がけだとは思いつつ
多少ストイックというか
できんのかあ?
とも思いつつ
まあ、健気な戒めにも思えて
ほろ苦くも感じたものです。

その頃の自分はといえば
「悪口はいっても愚痴はこぼさない」
と粋がっていたものだ(汗)

ときはネット時代到来に移っていった。

自分の思いや意見を不特定多数の人たちに
匿名ではあるけれど発信できるようになった。
そのなかで批判や否定を主体とする
ある意味での怒り憤りが
発せられるようになりました。
正当なものもあれば
的を外したものあるし
拡大解釈や飛躍、被害者意識や妄想
そういうのが本音っぽいとか
知性とか個性とかという
安易な思い込みもあったと思う。
ひとつのトレンドだわね。

そういうのも
ある意味で悪口になるんだろうけれども、
そんなふうには決して認めない。
それは「正論」として
当然のものという大義名分で飾られる。

とは、別に
弱音を吐くものたちが増殖していった。

愚痴である。

前者の悪口や悪態が攻撃的なのに対して
後者の愚痴は自虐的で弱者の嘆きだ。

後者のそれは前者に比べて罪がない
ように思われ受け入れられる。
わかりやすくいえば、可哀想だから。


しかしどうしてこうも
愚痴ばかり零すのか
これじゃ垂れ流しじゃないか。

昨日、テレビ東京のお昼のロードショーで
網走番外地 北海篇』なんて変り種をやってて
(この作品には若き大原麗子が出てるんだ)
何気に途中からしばらく眺めていたら
殺人犯の脱獄者杉浦直樹が味な演技をやってて
薄幸の母親に
そんな愚痴ばかりいってると運を落すぞ
みたいな、場面があって情緒がりました。

ブログを、愚痴の吐き捨て場所として
ストレス解消にする
それはそれで別に本人さんの自由だし
他人がどうのこうのいう筋合いではない。
ことは、十分承知之介だ。

これは説教ではなくて、
その人自身の問題だと思う。

愚痴を零すな、とはいわない。
零したいときもあるでしょう。

たださ、それを当然のようにして考える
当世浮世の風潮にわたしは鼻を鳴らすね。
はいはい気難しいオヤジですよ。

愚痴を仏教の三毒とするのは誤りで
実際の三毒は「貪・瞋・癡」を指し、
妬みや怒りや愚痴はこの「瞋」に入るそうです。
そういう難しい話は割愛しますが

だから、必ずしも間違いではなく
毒は毒なのだ。

毒とは呪いであり、
相手も呪うけれど穴ふたつですから
自分も呪う、呪縛する。

愚痴は自虐的だから
相手や世の中には遠まわしであっても
きっちり自分を呪縛してしまう。
運を落としてしまう。

それはどういうことかといえば、
本来その愚痴の原因は現実の生活環境の
矛盾にあるわけで、その矛盾をただすことが
大切なんだと思う。
それがそうそう簡単にいかないこともわかる。
簡単にいかなくてもやらないと
その状況はなにもかわらない。

愚痴を零すなとはいわない。
零したいときもあるでしょう。

たださ、それが度をこすとよくないよ。

水商売の身の上話じゃないんだ。
ホステスでも客でもないし、
その逆でもないしね。
そうであってもそのなかでも
限度というものがある。
そんな愚痴には救いというか
オチをつけておくものですが、それがない。
度をこしているのだ。

無尽蔵に拵えていく愚痴の数々
本当にそれは愚痴るものなのか?
愚痴らなきゃならないものなのか?

吐き出してしまう。
吐き出してしまえというけれど
乗り物酔いしてる子供がもう吐くものもなくなって
胃液を吐いて粘膜を傷つけ
胃液と血を吐いているようで
痛々しいね。

本当の自分を取り戻すための作業・・・

嘘つけ

そんなところに本当の自分なんかないよ。
オタメゴカシの優しいふりした馬鹿の情けなんかに
すがるなよ。
そんなたよりないあてになどならない
無責任なものに浸っててはいけない。

話を聞いてほしいなら
それなりに
最後に救いのオチをつけてくれ。
それでその愚痴は救われる
聞くものも零すものも
それを反故にしてしまうとぶち壊しだ。

自分のことしか考えないものに
一片の情などかけられない。
かけてはいけないものです。
それを見誤ってはいけないものです。

自分のためにも相手のためにも