あかんたれブルース

継続はチカラかな

愛について



人間の宿命は変化にある。
その時代や環境のなかで
わたしたちは様々な変化を余儀なくされる。
絶対にそれは実行されないといけない。
たとえば
季節という四季の環境に対して
植物は変化して対応しているように。
もうすぐ桜の季節ですが
桜が開花して
そのまま咲いていたいと
いくら頑張っても、それは叶わない。
桜は散る。

そういう無常観を
厭世主義として捉える人もいるけれど
そうではなく、それはプロセスであり
法則です。
それがあるから発展があり
循環されるわけだ。
循環しないものはたとえば水のように腐るのだ。

幼児が成長し成人し老いていく
そのなかで病み衰え死ぬ。
その掟のなかで人生は有限なのだけれど
それ以外にも
わたしたちは様々な変化を余儀なくされます。

人間は変化を嫌う傾向が強い。

いまの状況に固執する。
理由は不確定な未来に対する
怖れや不安だ。
知らないものに怖れを抱く
これも知性ではあるけれど
もっと深くもっと広い知性があれば
それを克服できるものです。

知性とはなにか?

知識と感性かなあと思う。

知識を否定する人たちも多い。
そんなものよりも経験が重要だという。
知識のなかに経験も属するわけだから
その考えには無理がある。
自分自身が体験できる経験は大きな知識だが
それは非常に少なく偏狭なものでもある。

感性が大事だという人もいる。
そうだと思うけれど、感性は磨かなければならない。
それには知識が必要だ。
それを直感といいかえても同じです。

知性の本質は洞察力にあると思う。

この知性を活用するには
勇気が必要不可欠です。

厄介なことは、
この勇気をわたしたちが
馬鹿にしている点だ。

それは大きな間違いだ。

勇気を投機的なものとか
賭博的なものと考えていることです。
そういう蛮勇を勇気とはいわない。

リスクをとれないことも
この勇気の欠如にあります。
それは知性の欠陥でもある。

どれほど知識があっても
ある種の感性に長けていても
恐いもの知らずであっても
正しい知性と勇気がなければいけない。

なにをもって正しいとするか?

愛があるかどうか。
それで、決まる。

厄介なことは、
この愛をわたしたちが
理解していないことだ。

それがなければ勇気を
そして知性を正しく用いることはできない。

わたしは一昨年から
教育改革運動に参加していますが
普通科改組や受験制度改革など
徐々に変わってきている。
ここで、詳細を記すことはできませんが
東大も遂に推薦入学を復活させました。
これは現在の入試制度に対する疑問姿勢を
明確に主張したものです。
入試も高大接続テストから変わることでしょう。

たいへん結構なことですが、
これはハード面の話だ。
ハードだけじゃなくて、ソフト面もちゃんと
しないといけない。
いろいろあるけれど
まず、この「愛」について
しっかり身につけられるようにしないと
いけないと思う。

じゃないとどうしようもない
馬鹿人間ばかりが増える一方だ。