あかんたれブルース

継続はチカラかな

自己愛について



無償の愛を記事にした以上
対となる自己愛を取り上げないと
片手落ちなのですが、
この説明が難しい。

自己愛=自己中心的愛orナルシズムに
解釈されてしまう可能性が大きい。

プライドや誇りがマイナスイメージに
先行されているのと同じで
質やレベル、スケールの格差が影響してる
のかと思いますです。はい。

わたしたちが陥る自己愛の勘違いを
もっとも解りやすく衝撃的に
気づかせてくれるのは
ヴェンダースの『パリ、テキサス』(1984年)

 マジックミラーを使って
 主人公が愛していたのは結局自分
 自身の独りよがりだった、という本人も仰天の
 新事実というオチでした。

まあ、それも自己愛っていえば
そうなんでしょうが
旬のもの国産もの天然ものみたいに
まったく味が違う。

はやい話がなにがつらいったって
自分を好きでいられないって
こんなつらいことはなく
ハードルを下げればクリアーできるっていう
ものでもない。

そういったものを土壇場で試される場合
義務、職務に対する責任。
勇気とか誇りとか連帯感(仲間)との友情
そして、自己犠牲にあるのではないかと思う。

自己犠牲なんて言葉が出たとたんドン引き
なのが現代の風潮なんでしょうが
これが結構、説得力があるものです。

リチャード・バートンが主演した
『空雪の太陽』(1973年)という
地味な戦争映画があるのですが
このなかで捕虜になったパルチザン
囮にされてドイツ軍のシェパードに噛み殺される
残虐なシーンがありまする。

このパルチザンたちは泣き叫びはするけれど
折れたり転んだりしないんだな。
これは罠だ。来るんじゃない。なんて

泣いたよ。それを観てた自分がさ。

作りものの映画なんだけど
あの中学三年だった高校一年生だったかの
わたしのショックは大きかった。
なんでこの人たちはこう在れるのか・・・

映画なんかで拷問シーンがあると
わたしは一発でゲロしそうです。
どうせ吐くんだったら、とか
そいうのが小さい頃からあって
後ろめたく感じていました。
たぶんいまもすぐ吐くかも。
『マラソンマン』みたいに歯医者の拷問だったら
なんて考えると・・・(恐)
だから余計にこの作品は衝撃的だった。わけだ。

色気というものを「一途」と解釈したときに
この自己犠牲っていうのには
たぐいまれなる色気があって自他ともに
恍惚状態にさせてしまうのかもしれませんね。
ここで、無償の愛とリンクするとなれば

もしかしたら愛の本質って
自己犠牲なのか?

ははあ、戦後の日本人が愛を見失ったのは
この自己犠牲を完膚なきまでに否定した
ためなのかもしれない。

そういう暴挙にでられる
事や人があったら、
人間は幸せなんだろうな~あ
と思う。

難しいことじゃないよ。
手近なところでは、子供がそうでしょう。