あかんたれブルース

継続はチカラかな

屁理屈について



http://blogs.yahoo.co.jp/djkxq447/19111784.html

記事は読まなくていいから
この画像みてください。3秒でことは足りるよ。
これは2006年9月の記事です。

弱った子供を狙うハゲタカ・・・

この写真を撮ったカメラマンが
ピューリッツァー賞を受賞したかことから
そのカメラマンの人間性とこの写真に
またその報道の意義に
賛否が分かれたものです。

たしか、このカマラマンの
ピューリッツァー賞は剥奪されたと思う。
違ったかな?

つまりさ、写真はこれだけじゃない。
その一部始終をカメラマンは「現実」として
写真におさめたわけだ。
どう思う?

「ひどい!なぜ助けてやらないの」
「せめてこの写真を撮った後でも
 追い払えばいいじゃない!」

普通こう思う。するとさ

「追い払ってもまた狙うさ」とか
「弱ってるいるのはこの子だけじゃない」
「その事実を世界に伝えることが重要で
 それが彼の仕事。務めだろう」

そんな声が聞こえてきたものです。
わたしは前者側の意見です。
そうすると後者側から野次が飛ぶ。
現実が、とか
合理的、効果的、効率性とか・・・

そして、精神や魂を馬鹿にして
誠実さを嗤う。


この七年半そのことを考えていた。


でもさ、本当に
こういった写真が世界を変えるのか?
救えるのかあ?

結局なにも変わらないじゃないか。

カメラマンはこの子を助けるべきだった。
たとえなんであろうと
それをせずにリアリティーとか真実とかを
優先させたがために
ジャーナリズムを地に落しめたのだ。

この写真は、そういう行為をしても
撮れたはずだ。
その後の惨劇はなんのためか。
この写真の裏づけのためか?
そのためにこの子は生まれてきて
ハゲタカに食い殺されてのか。

「そういう子は他にもたくさんいる」

いるだろう。
だからなんなのだ。
話をすりかえてはいけない。
関係ないじゃないか。

表現する、伝えるという手段において
リアリティーはとても効果のある
「演出」です。
その多くが偶然のようですが
そこには必ず必然があり、演出もある。


クリエイターとして
このカメラマンは失格だ。
それが酷なら二流三流の下の下。
これは差別じゃない。
生業にはそういう評価が存在するものです。

そのリアリティーとやらに依存しすぎた。
報道カメラマンである前に、人間であるべきだ。
いや、最後まで人間性を否定した
その勘違いの職務遂行に問題がある。

ヒューマニズムというものを否定した
「作品」になんの価値があるのだろう。
それはグロテスクや変態趣味愛好家の
邪悪な趣向でしかない。


現代の風潮はフィクションより
ノンフィクションを上位に置きます。
そのため、ノンフィクションが商品化されている。
演出や付加価値、販売促進に利用される。
湾岸戦争の際の黒い油だらけの水鳥とか)


フィクションとノンフィクションを
いったい誰が線引きできるか?
断言するけれど、それはできない。


そこにどんな屁理屈をもってきても

その正論も
その合理的、効果的、効率性とかも
その現実もみんなマヤカシのご都合次第だ。

たとえば、今から七、八十年前に撮られた
チャップリンの『街の灯』や『独裁者』は
紛れもないフィクションです。
しかし、チャップリンの生き様から
それは彼を通してのノンフィクションになった。
彼の作品こそが魂であり精神だ。
それはどんな自伝のノンフィクションより勝る。

この世で信じられるものは
誠実か不誠実だけ。