あかんたれブルース

継続はチカラかな

ミッキーも根を上げる



友人からリーダー、リーダー教育について
質問を受けました。

日本という国は日本人は
近代化の道を歩んでからそれをしてこなかった。
戦後はとくにそれが顕著です。

リーダー=優秀、有能ではない。
ましてや、リーダー=
有利とか得するとか楽するとか
それを名誉に直結するべき利権ではない。

リーダーはつらいのだ。
損を覚悟で、厭わず、できる者でなければ
やっていけない。

プロジェクトという言葉が流行りました。
この言葉を流行らせた仕掛け人から
わたしは学びました。
彼はその定義を「役割分担」といった。
リーダーの役割は過酷です。
その言葉は多くの
プロジェクトチームと
リーダーを生んでいきましたが
その厳しさを自覚する者は少なく
それを実行するものはもっと少ない。

彼は、在りし日の眩しい群像に敬意を込めつつ
「いまの日本にそれはない」と
言い切っていた。

友人にそのことを説明するなかで
わたしは、わたし自身がリーダーに向かない
と告白した。謙遜ではなく、そう思う。

その理由のひとつに
わたしは失敗を上手にさせられない。
という致命的な欠点があります。

できるだけ効率よく効果的に
事が進行するように段取りを組む
通称・段取り馬ちゃんです。

そのことが結果的によくない
ことも苦い経験から理解してはいるのですが
決定的な場面でそれができない。
これは人材を育てられないことでもあり
リーダーとしては失格なのです。

果断にそれを実行するようにはしていても
情に流されて機を逸していることが
多々あります。
そこまでストイックでなくとも
という人もあり、また自分でもどんなものかと
考えてしまうのですが、
そういうことで悩むこと自体
わたしがリーダーにむいていない
証なのだとも思う。
現状ではね。

わたしにリーダー学を教えてくれた
彼もまたリーダーにむかなかった。
本人もそれを認めてはいたけれど
本人が思う以上に、むいていなかった。

よく、「自分はナンバーツー向き」と
いう人がいる。結構多い。
一見、自分のことをよく理解している
ようにも聞こえますが、
わたしにはそうは聞こえない。
ムシのいい逃げ口上にしか聞こえません。
わたしをプロデュースしたといってくる人も多い。
ムシのいい無責任な発言にしか聞こえません。

リーダーはリスクがとれなくてはいけない。
リーダーは強運でなければならないからです。
悲劇の名将なんてありえない。
それにはリスクをひける胆力が必要です。
逃げが先に立ち無責任でムシのよいものは
他者をプロデュースするどころか
リーダーにもナンバーツーにもなれない。

自立できていないものが
リーダーになんかなれないのだ。
利己から利他。
幸運、強運はそこから生まれる。

道徳や愛について語るときに
その本質を理解していないなかで
それをどう伝え実行するのか?
リーダーの本質を理解せずにどう伝え
また、どうそれを捉えて実践するのか。

そういうものはわかってできるものではなく
訓練して身につけていくものだ。

また、リーダーには
一国の宰相から一組織から
家族という最小単位の共同体まで存在する。
いや、個人にまでそれは求められるのだ。
自立できていないものが
リーダーになんかなれないのだ。

そう考えれば、
みんなリーダーでなければならない。
そして、リーダーである必要はない。
ここでいうリーダーは
意味合いがまったく違うのですよ。

 駕籠(御輿)に乗る人、担ぐ人、
 そのまた草鞋を作る人

駕籠と御輿じゃ意味が違ってきますが
いいですか、駕籠には利権の臭いがして
金が必要なのだ。
御輿は自分から乗れるものではない。
堕ちるか引きずりおろされるか
ましてや、本来御輿には乗ってはいけないのだ。
御輿とは神を担いでいるものであって
その上に乗るという行為は不遜、驕りの
なにものでもない。
おい、神主ちゃんと注意して徹底させろよ。

オークス当日の浅草の三社祭
住吉だの松葉会だののやくざが御輿に乗って
警察から注意されているが
注意されるまえに任侠道精神から
自粛すべきだと思うよ。
教育によくない。


そういうことからし
デタラメな世の中です。
本当の意味でのリーダー、役割分担、自立
そして循環と「へだてなき」平等公平の社会
考えてみるべきではないかな。

♪ボクらのチームのリーダーは
 みっきますみっきます
 みっきみっきまうす。