あかんたれブルース

継続はチカラかな

盗人に追い銭



わたしはよく、
「わかっていてもできないことがある」
といいます。もう口癖みたいだ。
それでもまずはわかることが大事だ。
人に言われてもわかるものではない。
自分でしみじと、ああそうだなあ
と、納得しない限りわかったことにはならない。

気づきとはこのことですね。

それでも、わかったから即、できる
とは限らない。

人間とは非力なもので、
人間の力ではどうにもできないことが
たくさんあるものだ。
世の中はそのように矛盾にみちている。

それが故に、厭世的になる人もいますが
事の本質は自分一人で
なんとかしようとするから閉塞するんでしょうね。
また、そこに驕りもある。

生きているんじゃない。生かされているのだ。

物事は因果の原因と結果だってことを
否定できる人はまずいない。
この因果は縁起によって生まれます。

人と人との縁で生まれる、起こるのだ。

ここに因果縁起の宿業がある。
これは積み重なった条件の環境なのだ。

昨日リーダーの話が出ましたが
たとえば、
一人殺せば犯罪者、千人殺せば英雄
なんていいます。
千人殺して、英雄(リーダー・指導者)に
なりたいか?
とてもとても、とだいたいが腰が引けるものです。
人一人だって殺せるもじゃない。

俺ならできる? いやそんなことじゃない。

じゃあ、それをやるやれる者と
やれない者の差は、良心とか能力の差?
善人悪人の差なのか?
そうではないようです。
要は、条件と環境の差であって
それは積みあがられた宿業(条件)による。

だから、ヒットラーもスターリーンも
トルーマン毛沢東も一個人としては
特別な人間じゃないんだ。

たまたまそういう宿業の条件の積み重ねで
そういう場がめぐってきただけ。

人間が時代をつくるのではなく
時代が人間をつくっているともいえる。
環境、その積み重ね、なんですね。

これを逆手にとって考えれば
不運とか困った環境を変えるには
その(悪)条件をクリアさせるには
根本の「因」を修正しないとキリがない。
わたしたちは事象としての「果」ばかりに
目を奪われて「筋」を見失うしまう。
貧乏暇なしで破れた風呂敷包みを背負って
我を見失って収拾するけど拾ったそばから
垂れ流し状態に陥ってしまうものです。
臭いに臭いは元から断たなければだめなんだ。

そのために縁起があって
その縁から気づきがあるのですが
人間ってものは真実を怖れるから
それを否定したり逃避したり
イライラしだすのだ。
でも結局は自分のことだしねえ。

背負ってる宿業の積み重ねを断つ。
そんないまさら。なんてことはありません。
その腹が出来て、一歩行動できれば
一発で変わる。
要は、そこまでが大変なんだ。

そのための縁起であって
その縁からなる切っ掛け、ヒントを
大事にしないといけない。
必ず意味がある。
そのイライラにも意味がある。
相手のせいじゃない。
自分自身の事として捉える。
自分自身に向き合う勇気。
そういう誠実さってものが幸せを引き込み
不運を遠ざけ払拭させるコツなんだなあと
『嘆異抄』から味わいました。

強要はしません。
宗教の勧誘でもなければ
金払えなんていわない。タダでやるよ。
参考になったら幸いです。