あかんたれブルース

継続はチカラかな

生きるってこと



一昨日だったか函館で障害(ダウン症)を
検査ミスで見落とした病院側への訴訟の
ニュースがありました。
生まれた子は生後三ヶ月半で合併症を併発し死去。
両親は出産前の告知がなかったことで
担当医(院長)に1000万円の損害賠償を求めた。
病院側はミスを認めているそうです。

考えさせられるニュースだった。
この両親の悲しみはわかるし同情もできる。
この事故の原因は単純な判断ミスだそうです。
こういう医療ミスはあってはならない。
そのためにも・・・、となるんだろう。

出産は当事者にとっては特別なことでも
医療関係者には日常のことで
ついつい緊張感がうすれてしまったのでしょう。
しかし、どんなに医療が発展しても
人間のやることですから
ミスはなくならない。

わたしはこの1000万円という金額が
高いの低いのからまず考えていた。

もし、出産前にその正しい事実を知らされたとき
この両親はどういう決定をくだしたのだろうか。

そんなことは関係ない。
という人も多いと思います。その理屈もわかる。


少子化のなかで、その問題のなかで
産婦人科が激減している。
商売にならない。
それだけでなく、リスクが高い。
訴えられるおそれが高い。割が合わない。
だったら
訴えられるようなことをしなければいい。
と、即、なるのか?
子供か、お前は!

すくなくなっていく産婦人科にあって
高齢出産は受け入れない病院も増えている。
うちもさがすのに苦労しました。
息子が生まれた病院もいまは不妊治療だけの
病院になっている。


別に泣き寝入りしろとかいってるんじゃない。

あの1000万円の金額、値段の意味が
その子の命の値段なのか
両親関係者の悲しみの値段なのか
医療機関に対する警告の値段か
社会に対しての一石を投じるため
もしくは裁判・弁護士費用の値段なのか


道徳について記事にしたときに
それを社会や共同体の道徳(ルール)とするか
人間としての本質的なものとするかで
意味が違ってくるとしました。

同じように「法」というものも
社会の、つまりは法律的なものと考えるか
もっと哲学宗教的に、真理とか
科学的に法則メカニズムみたいな
ものと考えるかで違う。

道徳の話は理解してもらえるような気がしても
現代において、
「法」は完璧に法律に特化して捉えられている。


たった三ヶ月半の命
名も知らぬその子が教えてくれたのかなとか、
そんなことをもらしたら、その子の親を
批判しているように聞こえるでしょうが
そうではなく、そうじゃないんだよ。

報恩講をテーマに原稿を書いていたら
小田和正の「言葉にできない」を思い出し・・・
こんなのにあたってしまった。
http://www.youtube.com/watch?v=ZAID00KkxVg

生命保険会社のCMに
泣いた。泣かされた。

生きるってなんだろう。

六年の命と三ヶ月半の命

あなたにあえてよかった
うれしくてうれしくて
ことばにできない