あかんたれブルース

継続はチカラかな

鈴原芽衣シンドローム

つぐみのゆりかご(3)


『Mother』の登場人物のなかで
次女・鈴原芽衣のキャラクター設定は
昨今お騒がせの「過剰反応」現象
の本質を解くカギだなあ
と、思いました。

彼女は、自分を「打算的」と称し、
辛らつな言動を行使する。
姉に対するコンプレックスが根にあるようで
それは、つまりは自身に対する自信のなさだ。
そんな彼女を家族は的確に「臆病」と見抜き
本当は優しい性格なのだと。そのため
そういう反応、言動に出てしまうことを
よく理解しているようです。
ま、家族だからね。他人はこうはいかない。

世の中、悪い人なんてそうそういません。
だいたいは弱さゆえであって
それが臆病となって現れる自己防衛が
過剰反応を示す。

彼女は常にイライラしてる。苛立ってる。
他者を否定することで自身を肯定する手口が
流行っている。しかも辛らつに。
実は、他人に対してではなく
自分にイライラしてることを認識しては
いないのかもしれませんねえ。

ここでの「ああ勘違い」は

(1)毒舌・誹謗中傷=本音=真実=クールな知性
という思い込みがある、とまず断言しておきます。

原因はお笑い芸人の芸風で
ビートたけしの毒ガス→ダウンタウンの吉本文化
といって過言でない。
これが80年代中頃から現在まで30年。
スタンダード化してしまった
ひとつのパターン、マニュアル化してしまった。

(2)個性とアイデンティティーの履き違え

主張しないと埋没するのではないかという
強迫観念がある。
そこで言っておかないと卑怯者もしくは負け犬
になりそうなので、とにかく
言っておかないと気がすみません。

(3)抑止・専守防衛電撃戦

でも本当はそういう荒事は好きくはありません。
そういう言動を与えられるのが耐えられない
なので、先手必勝。
やられる前にやっておこうという
変な抑止力というか
これがどんどん加熱していく。


たぶん目先の利いてる人はみんなわかってる。
ただ、そんなこと指摘しません。それだけ。
だから、次女・鈴原芽衣
そんなふうに観られていることを知って
恥ずかしいことと気づかないといけない。
というのも次女・鈴原芽衣の家族は
みんなお見通しだったわけですからね。

次女・鈴原芽衣としては
みんなが甘いから(そう見えてしまう)
「私がしっかりしてみんなを守らないと」
という使命感もあったと思います。最初はね。
そこから
その意図的につくったキャラが
一人歩きしていく。
自分でもみょうな感じだったんじゃ
ないでしょうか。

こうきたら・・・こうなる。そうなると
こうくるから、こうせざるおえないよなあ・・・
となれば、こうなるよなあ・・・といった具合

引っ込みがつかなくなってしまう。
ここに「本当の自分」とのギャップが生まれる。
というかどんどん乖離していくんだ。
見失ってしまう。

これが不味い。

ま、ドラマでは妊娠を契機に
母性がそれを気づかせてくれましたが
あれはドラマであって
みんなが都合よく妊娠できるわけじゃないし
男の場合は絶対無理なんですから。

ラストは切り捨てたはずの
俗物フィアンセが戻ってくるという
この名作の唯一の汚点で
シングルマザーを回避させている。
大方はシングルマザーの選択を
余儀なくされる現実を「不利」と認めて
避けてしまったのだ。
このドラマの原点がそこにあるにも関わらずだ。
敵前逃亡の軍法会議だぞ。


人間は変化も嫌がるし
なかなか後戻りできない性分です。

なんで不味いかというと
自分ともう一人の自分ができて
その間に空洞、隙間が出来て
それがだんだん大きくなってしまうから。
隙間ができたら、なにかが入る。
変なものが入ってくるんだ。
それは魔ですよ、魔。
魔がさすっていうやつです。