あかんたれブルース

継続はチカラかな

錦繍の乾布摩擦



多様化という言葉が
言い訳にされて久しいのですが、
私たちの価値観、人生観も多様化してるのか
と考えてみると、どうもそれとは逆で
画一化しているのではないかとさえ思ったりする。
なんだかんだ揉めてるけれど
根っこのスタンスは一緒で、その各論や
ディテールの相違で反発対立してるように
思えるのです。

その原因に生死観が
生きることばかりに偏っている
傾向があると思うのです。
「生きることと死ぬことは一緒」
仏教的ではこう考える。
これは正しいものの考え方だと思う。
死はすべてに平等に与えられる。

私たちは生きることばかりに気をとられ
急き立てられ追い詰められてしまっている。

日本の自殺者の数は1998年に急増しました。
その原因にはこれまでいわれるように
失業率と関係があるのは確かでしょう。

それはそうなんだけれど、
失業=自殺
という単純な図式で割り切れない。

終戦後の混乱期で生活保護自給者が今現在と
同じほど高かった昭和25年でも
自殺者数は18000人ぐらい。
人口増加を加味してもどうも合点がいかない。
この傾向は先進国のなかでも突出しているそうです。
日本人の死に対する考え方が
欧米人とは異なるってこともあるでしょう。
社会環境にも原因はあるとして、
日本人の精神的な免疫力が低下しているんじゃなか?

環境といえば、この1998年に
環境ホルモンの問題が発表され話題になった。
マスコミは大きく騒ぎ立てましたが
立証されずその後は尻すぼみだったようです。

農薬や添加物、産業廃棄物などによる
環境汚染などなど
私たちは内から外から蝕まれている。
健康被害という弊害が
メンタル的な免疫力低下になって現れた。
因みに、モラルハザードという言葉が流行したのも
この年からだったようです。

いろんな意味で環境が悪化した。

生きること死ぬことは一緒。

わたしはこの言葉を
宮崎アニメの『ゲド戦記』ではなく
宮本輝の短編小説を通して出合いました。
そのとき、まだ若くてよく咀嚼できなかった。
四十過ぎてからぼちぼちじんわりしみじみと
みたいな感じでしたが
その味わいのなかで
宮本輝は死を意識してたんだなあと・・・と

確か彼の作品のなかに結核療養のくだりが
あったはずなんですが
ちょっと気になって確認したところ
結核ではなく、

>20代半ば頃から重度の「不安神経症」、
>現在のパニック症候群に苦しんでおり、
>サラリーマン生活に強い不安を感じていた。

あの宮本輝がねえ・・・
しかし彼は死ななかった。
自殺とうつ病を関連付ける考え方もあります。
ただ、もし宮本輝精神疾患で苦しんだ結果から
「生きることと死ぬことは一緒」という
考えを導き出したとしたら
その苦しみは正当な生きるためのプロセス
だったのではないかと思うのです。

宮本輝は、わたしより十二歳年長の団塊世代
彼が長いトンネルに入ったのは
1970年代を過ぎたころです。
この70年代を境に、日本は日本人は変わった。

死は誰しもが意識すること
苦悩は私たち人間が持ち得る宿業だと思う。
それがつらいことであることも理解できる。
が、考えを整理すれば
生きること自体がつらいことでもあると
いうことであって
それは別に悲観的な考えでもなく
当然の現実の直視なのだとも思う。
だから、死ぬことを持ち出して世を儚むという
考え方には生きることに対する認識の甘さがあると
思うのです。
そういう発想こそが、つらいのだと思う。
本当に苦悩を経験してきたものは
そういうことをくちにだせないものだと。

生きることと死ぬことは一緒。

この考え方が具体的な
なにかの解決策になるわけではないのですが
迂闊な私たちの誤解の罠にはまらぬための
指針にはなるのではないかと思いました。

宮本輝の作品に『優駿』というのがあります。
単なる競馬小説ではなく
生きる活力を奮い立たせてくれる
良い作品です。
こういう作品は宮本輝でなければ
書けなかったのではないかな。