あかんたれブルース

継続はチカラかな

あまちゃんフィナーレに思う

屠られる羊たち(10)


明日の『あまちゃん』最終回を前に
トリックスターさんと馬太郎の間で
熱く盛り上がっています。

そう、このドラマは恨みや呪い、呪縛の封印を解く
そういうフィクションだった。
十字架や聖水やニンニクのかわりに
パロディーやギャグやコントが網羅されていた。

そこには、伊勢志摩の台詞を借りて
「わかるやつにだけわかればいい」という
呪文があった!

メディア業界ではこれはタブーなのだ。
その大義名分は「万人向け」というお約束だ。
結果、誰でもわかる表現は去勢され
生ぬるいお茶で濁され続けてきたんだ。

いいんだよ多少わかんなくたって
俺たちはそういうなかで育ってきたわけじゃないか
わかんないやつにわからそうとすると
それだけで萎えてしまうじゃないか、とはいえない。

そんなこというと、驕ってるとか批判されろうだし
なんか気が引けるし、重くなる。

クドカンはそれを見事にやった。
しかもNHKで(汗)
「わかるやつにだけわかればいい」

わたしは、この言葉を感慨深く重ねています。
中島みゆきの『蕎麦屋』の
「あのね、わかんないやつもいるさ」って
そういって泣かせたんだ。
途方に暮れていたあいつを、みゆき嬢ファンを。

みゆき嬢のやさいさ思いやりは
その蕎麦屋のテーブルの二人の中心から半径2メートル
その円弧の内側でアコーステックギターを爪弾くほどの
小さな囁きで語られた。
時代性もあっただろうし、気遣いもあっただろう。

それが私たちを憂鬱にさせた閉塞感の正体
でもあったかもしれない。
これも呪縛だったのかもね。

クドカンはそれをもっと外に広げた。
笑いで、それをやっちまったのさ。
いいじゃないか、意味わかんなくても
わかんなくてもわかるだろう、
なんとなく面白そうな雰囲気伝わってくるだろう。
笑いは、理屈じゃない。
わかるから面白いんじゃない、理屈だけじゃ笑えない。
それはセンスであって波長なんだ。
私たちはその波長に共鳴してる
共感しているんだ。

脚本の組み立てが上手いだけじゃない。
クドカンのセンスには愛がある。
やさしい思いやりがある。
みんなこれに救われたんだ。
フィクションが現実を超えた瞬間を
私たちは何度も何度も目撃し、そして笑った
感動して泣いちゃった。
たかが15分のNHK朝の連ドラごときに
60過ぎのトリック爺と50過ぎの馬オヤジが
目を腫らし頬濡らし洟垂らしゲラゲラ笑ってる。

私たちはこの朝のひとときで浄化されていた。
あまちゃん』はそういう朝の福音だった気がする。