あかんたれブルース

継続はチカラかな

突っ張りハイスクール六君ロール

チェブラーシカと一緒に(4)


虫のつぎは張るについて、サロンパスじゃないよ。
欲張り、業つく張り、意地っ張り、見栄っ張り
ツッパリなんていうのもあります。
張ったり屋とかもいる。
はてさて何を張るのか?
これも我なんでしょうねえ
我を張ってる。
博打なんかでコマを張る(時代劇の賭場では)
現ナマ(現金)を張る。なんて申します。
体を張るとか命を張るとか

論陣を張る。っていうのがあります。
[論理を組み立てて議論を展開する](goo辞典より)
そこには論争がある。

対峙する正論と正論。一歩も引きません。
本来、正論であるならばそう揉めないはずですが
右翼には右翼の正論が左翼に左翼の正論がある。
見栄子には見栄子の正論が
我儘子には我儘子の正論がある。
つまり、正論といっても
その人それぞれの正論があるわけであって
「正論」というものははなはだ怪しい身勝手論
だったりするものです。

身勝手というと酷かもしれませんが
利害利権は薄くても独善正義というものもある。
この正論とか正義が厄介なのは
状況環境立場で変わる。
アメリカ人のそれとイラン人のそれは違う。
政府高官のそれとパート従業員のそれとは違う。
男と女じゃ違うものです。

また、人間は物事を考えるときに
細分化して考える手法を用いるものです。
本質から枝分かれして末端の問題に集中して
個別に解決させていきます。
その過程で混乱してか本末転倒になってしまう。

平和を守りたい→日の丸君が代ボイコットする
差別をなくす→言葉狩りを徹底する 
いじめ問題発生→被害者を転校させる
みたいなものですかね。

その人にとっての正論はある意味では
その人にとっては真理に近いけど
真理と正論は違う。
真理というものが仮に、仮にだよ108個あったとして
正論は108個×人間の数だけあることにもなる。
そういう正論同士がぶつかっても
六なことにはならない。
論議論というけれど、それはある程度
話が通じる相手同士じゃないと成立しないわけだ。

この我を張るに似たような言葉で坊がある。
きかん坊、怒りん坊、(広島あたりじゃ)悪るがん坊
なんていう。
この坊っていうのは子供、ガキのことですが
もともとは仏教の信者、仏教徒のことだった。
武蔵坊弁慶なんていうわけだ。
で、坊主っていうのは
そういう門徒の主、親玉、親分だってことを
仏教史とかで読んで驚いたものです。
加賀の一向一揆なんって有名ですが
坊主は、ああいった土一揆のリーダーたちで
はやい話が地侍とか土豪とかわらない土地の顔役だ。
まあそういうことを考え合わせるとこの坊は
(修行者)未熟者を意味するわけだ。

話を戻して、張るのは「我」じゃないかと推察しましたが、
どうもこれは確立された自我ではなく、
未熟な我であるということになる。
アイデンティティーの確立される前の我かなあ?
しかし、自我といっても
人それぞれ個人差がありますからねえ。
劣悪なものでも確立されれば、それはそれなんでしょう。
要はそこに迷いがあるかどうかなんでしょうか。

逆に考えると迷いがあるほうが
まだ伸びしろがあるから救われるということかも
しれませんね。
「これだあ!」と達観しちゃった日には
その人にとっては絶対にコレなんだから(汗)

未熟な頃のそれとは違い
年を取るってことは様々な知識や経験から
固定観念に凝り固まってしまうものです。

人生一生勉強。という言葉は
一生悩むということであり
悩むということをそうそう苦に考えることも
ないんじゃないかなあと思えてきませんか?

考えないことではなく
考える方向性や考え方の問題であって
ある意味で考えが足りない。