あかんたれブルース

継続はチカラかな

物わかりの良過ぎるの考えもの

I&U研究所(7)


所長から『ある精肉店のはなし』をチェックせよ
という指令があった。
http://www.youtube.com/watch?v=y7Rl-dyh_U0

骨太で丁寧に作られたドキュメンタリーだ。
食の問題だけでなく「屠殺」と「差別」という
大きなテーマが横たわっている。

とは別に、この作品をめぐって
相反する「極論」がわたしの気持ちを萎えさせた。

この作品が「けしからん」という意見だ。
それは畜産産業の非道を訴える人たちです。
動物愛護団体系の方々なのかな)
彼らの神経を逆撫でさせるのは、まず
この作品のクオリティーの高さだ。
がゆえに「雰囲気に流されるな」と警告する。

http://amour918.blog.fc2.com/blog-entry-1311.html

彼らは肉食自体を「悪」としたいわけです。
そういう意味でこの作品は邪魔なのだ。
許せないわけだ。
わたしは到底こういった極論に賛同できない。

しかし、彼らの苛立ちも理解できる
そこが厄介で、それをどう説明し伝えようか
ここ数日、考えあぐねていました。

この作品を賛美する側の論調の
「ものわかりのよさ」に違和感を感じるのだ。

普通、生きた牛をその場で屠殺したら
その場面をまじかで目撃したとしたら
その湯気の出る血の臭いを嗅いだとしたら
一般人、素人が
その解体作業を見守っていったとして、

即、「屠殺は美しい」となるか?
即、「今夜は焼き肉だ!」となるだろうか?

解説の批評記事には、
そういうコピーで絶賛していました。
「命をありがとう」だって

そりゃそうだ。御尤も、結論としてはそうなる。
わたしもそう書くだろうし
このブログでも「いただきます」の祈りとしての
気持ちを大切にしようとまとめたよ。

で、結論はそうであっても
せめてさ、そういう工場見学したりとか
こういう映画を観たら、せめてその日ぐらい
三日ぐらい、もしかしたら一週間は
肉が食えなかった、ぐらいのしおらしさが
あってもいいんじゃないかな、と思う。

普通の神経があったらね。

別にベジタリアンになれとか肉食うななんて
いってるんじゃない。それじゃ短絡的じゃないか。

わたしは現代人ってとかく性急すぎると思う。
正しい結果ばかりを追い求めてる。
プロセスがまったく欠けているように感じる。
これ、思考の効率化と技術化に原因があると思う。

そういう人たちが多い。

  他人事じゃないぞ。
  うつ病以上に
  けっこう蔓延しています。

  マニュアル社会のせいなのか
  ペーパーテスト主体の教育の賜物?
  無駄な悩みは飛ばす合理主義?

それってさ、薄っぺらい臆病者の思想だ。
虚勢をはってるようで卑怯であるとも思う。
誠実さがないともいえる。
そんなものは科学的でもなんでもない。

このブログではよくリテラシーについて
問題提議しています。
読み解く力、読解力、考える力です。
インプットと分析力とアウトプットだ。
これが欠けていると痛感する。

たとえば、映画ひとつにしても
その感想文にしても
どこか借り物的なものが多い。
「お前、本当にそう感じたのか?」と。

また、時事など様々な批判にしても
「本当にそれが問題なのか」?と
首を傾げることが多々あります。

そりゃねえ、いろんな人がいていろんな
意見があっていいんだけれど
そもそもその中身が怪しい。
なんか批判のための批判のようで。

それは読者とか視聴者だけじゃなくて
送り手側にもいえることです。
長いこと編集者とかライターとかと
付き合っていて、本来プロである彼らの
そういう脆弱さ劣化を
ひしひしと感じてきました。

だから、プロとしての原稿である
『ある精肉店のはなし』のネットマガジンの原稿に
そういう性急さがあったとしても
仕方ないよ。
みんながみんな優秀なプロフェッショナルって
わけはなんだから。

  しかしなあ、ネタがネタだけに
  このチョンボは痛すぎるのではないか
  これライターだけの責任じゃなくて
  編集者の責任のほうが大きい。
  もしかして編集入っていないの?まさかね

だからこそ、そこでリテラシーが問われる
のだけれど、それが・・・送り手も受け手も
こういった傾向だから話にならない。
泥仕合だよ。

これだと(『ある精肉店のはなし』)監督の
纐纈あやさんも辛いんじゃないかな・・・

これって
プロとかアマとか関係ない
現代の日本社会における重大な思考姿勢の
社会問題だと思う。

文系社会のはずなのに
知性どころか感性がぶっ壊れる。