あかんたれブルース

継続はチカラかな

生命の美しさを表す死という存在

I&U研究所(残酷な話-5)


もともと日本人は四足は食べない民族でした。
殺生を忌むのだ。
日本人だけじゃなくて宗教的に
牛は食わない豚は食わないという民族的戒律はある。

もともと日本人は八百万の神とか
自然崇拝の民族だったところに
神道が入ってきてそれ以前の神々は
出雲に封印された。
その後で仏教が伝来した。
神道は死を忌み嫌うのだそうですが
仏教はそうでもない。
けれども当初の仏教は貴族などのもので
現世利益と極楽浄土へのパスポートだった。
庶民のものではなかったのです。

そのなかでも、殺生を生業とする
(猟)漁師や遊女などは救いがなかったのですが
浄土宗の法然さんがどんな人間でも念仏で救われる
として仏教を庶民レベルに引き下げました。
そのことで天台や真言の既成勢力から弾圧を受ける。
法然の愛弟子親鸞にその教えは受け継がれていくの
ですが、公家から武家社会に以降していくなかで
身分制度が確立されていきます。
その過程における戦乱のなかで敗者は
最低層の身分に追いやられてしまいます。
また大和朝廷に反抗的で帰順しない民族も
追いやられ差別されて生きていきました。

徳川幕府が設定施行した
士農工商という身分制度は学校では
農民は二番目だけどそれは建前でと習ったはずです。
でもね、少なくともそれ以前の秀吉の刀狩まで
農民と武士の差ってそうなかったんですよ。
限りなくイコールに近かったのだ。
また坊主っていうのはもともと農民たちの
顔役みたいなもので坊の主という意味で
土豪地侍、とかわらない。
これはわたしの与太じゃなくて
仏教史とかちゃんとした本に史実としてあるし
また娯楽時代小説で隆慶一郎の『吉原御免状』にも
興味深く紹介されていたりもします。
非人だけじゃなく土蜘蛛、傀儡子、踊り巫女、サンカ
などなど、日本人はだけじゃないんだ。
明治期に戸籍制度は施行したら日本の人口が
倍増したっていうくらいです。
それ以前は寺が管理していたのです。
その場合に土地を有しているかどうかが
大きな資格だったのです。

白土三平の『カムイ伝』って読んだことある?

外伝じゃくてオリジナルのほうね。
これはエタ非人の物語だ。
農民っていうのは土地を有しているので
ある意味強いのです。ときには武器をとる。
対してこういった被差別部落民は
(農作業用の)家畜の処分などを
生業としてきました。
そういう仕事を一般日本人は忌み嫌ったのだ。

差別されきたユダヤ人が金融保険の仕事を
生業としてきた、せざるおえなかったように
家畜の処理は日本の被差別部落民の役割のひとつ
だったわけです。革製品加工とか太鼓とか

所長が提示した『ある生肉店の話』には
そういった差別の問題もあるわけだ。
これは地域的な体温差が顕著です。
こういった差別は北海道にはありません。
また西日本と東日本ではだんぜん西日本。
なかでも関西では顕著。
大阪市内中心部にもそれはある。京都なんか特にね。
また、外様大名の地域、たとえば薩摩なんかでは
比較的にそういう意識はすくないものです。

わたしは、屠殺=残酷
という連想はまあ無理もないことかとも
思うのだけれど、だからといって
それを即決すのには問題があると思う。
残酷だから、だから食べなければいい。
食べるのをやめよう。という発想は短絡的だと。

つまり、これは日本人の伝統的ともいえる
死に対する嫌悪感と、否定
(それを他者に強要させてきた)
宗教と権力の密接な関係性。
また戦後教育のなかにある生死観の矛盾に
強く影響されていると思うのです。

この『ある生肉店の話』の制作には
あるカメラマンの家族の肖像写真を発端とする。
その写真をみて、監督はそのバックに吊るされていた
牛の枝肉を「美しい」と感じた。
そのスチールはこの映画のポスターにも使われている
とてもクオリティーの高いものです。

わたしは長くアートディレクターをやっていたので
このカメラマンの手法や姿勢や力量は想像できる
ので、それを美しいと考えるこの監督の評価や感性
は正当なものだと思います。
わたしも美しいと思うよ。

でね、その美しさにはその吊るされた
枝肉に生命があるからだ。
生命というのが死によって表現される。

確かに屠殺自体はグロテスクなものかもしれません
それをたとえば、映画でいえば
『ヌードの夜/愛は惜しみなく奪う』や
冷たい熱帯魚』でショッキングに描いたりもする。
実際にそういう事件は多い。

物事には必ず二面性があるものです。
人間のライフには生と死がある。
その生には喜びと哀しみがあるように
その死にもそれはある。
だからこそ、生は尊いわけであって
これが対比なんでしょうねえ。
人間は相対的に物事を考えたり感じたりする。

それを否定してただ残酷であるとか醜いとか
グロテスクなものと即決して否定するのは
人間の浅はかな驕りでもあると思うのです。

残酷さという意味を履き違えていると。

わたしは現在の畜産の現状はとても残酷だと思う
けれども、だからといって屠殺自体を即残酷と
定義付けるのは間違っている。
残酷の次元がまったく違うのだ。

これが映画のポスターに使われていた
ある生肉店の家族の肖像と枝肉の写真です。
http://eiga.com/movie/79341/photo/

「私は美しいなんて思いません!」
なんていう人もいるんでしょうが
そう性急に答えを出さないで
じっくり考えて感じてごらんなさいな。
答えを導き出すためではなく
そのプロセスが大事なのだから