あかんたれブルース

継続はチカラかな

正当なジレンマ

愛する技術という発想(2)


愛するということ エーリッヒ・フロム
http://www.youtube.com/watch?v=Qn4rGQ-eBn0

昨日のわたしの稚拙な文章よりも
原文をそのまま朗読してくれていたので
イントロ部分を張り込んでおきますね。

ちょいす姉さんから
「愛して愛して愛しちゃってるのに報われないよ。
 そんな自分にも腹が立つ
 損してると思ってしまう」

なかなか率直で正直な発言ですよね。
人間どうしても報われたいと思うのが普通だ。
報われないということは悲劇であり
失敗であるとされています。

ここに
愛する<愛されたい
という価値観がどっぷりと横たわっている
しかしこれって刷り込みであって
思い込みであって
人間本来の本能ではない。
としたらどうする?
そういうふうに思い込まされてしまっている
錯覚だとしたら・・・

愛すること自体が嬉しい、歓びであると意識できたら
そこに報いなど求める必要はないのかもね。
いったいいつだれがどこで
愛を商取引のようにすり替えてしまったのか?

与えられること与えること
私たちは前者を得で後者を損と考える
でなければ後者のなかに優越感とか慈善とか
偽善とまではいわないまでも自己満足のなにかを
嗅ぎ取ってしまうものです。
が、だ、
あう一方で与えたいという願望や欲求もある。
その一番わかりやすい例が子育て育児
もっといえば母親の授乳だ。
わたしは残念ながら男性なので
その至福の歓びを知ることはできません。
ただ聞いた話とか想像するだけですが
母性として、授乳するものが
まさかこの子をまるまる太らせて今夜の晩飯に料理して
とか、良い学校に入れて一流会社に入社させ
末は左団扇の老後は安泰・・・
なんて皮算用で授乳はしないよね。
しないと思うけれど・・・するのかなあ・・・

こういうのは野生動物でもそうである
自然の摂理というか本能だよね。
こういうところから愛はあるとしたら
これが愛の根本原理なのでしょうが
問題はこれだけではおさまらないということだ。

子供は成長し乳離れして親離れしてしまう。
もうひとつの原理として変化を余儀なくされる
これがこの世のお約束です。

不変を求めるのだけれど
それが許されないのが悩ましい。

幼児が成長するように
私たちも成長すべき宿命にある。
それは肉体だけの成長(老化)ではなく
精神的な成長のことであり
それは継続される命題なんだと思う。

フロムはそれを自立というふうに
解釈しているようです。
精神的な自立。自由と言葉を代えてもいい。

もしちょいす姉さんが
損をしているように感じてしまう自分に
腹立たしさを感じてしまうというのであれば
それは自身の成長が遅々としてはかどらない
ジレンマであり
それは正当な、健全な、真摯な、態度のあらわれであり
その鬱屈を払拭するには
愛に対する今時の風潮の解釈をさらにしてみる
試みが効果的なのではないかと思うのです。

これはキャッチ商法と同じで
素焼きの壺にロゴマークを印字しただけで
みんながそれを争って手に入れようとするのと
同じようなもので
現在の経済とは社会とはそういった
作り出されたお約束で回ってるいるに過ぎない。
循環は必要不可欠なものですが
この循環は自然循環ではなく
ただ私たちを疲弊させるものでしかない。
そういう比較や相対的なものよりも
自分自身がどう充足するかが大事なんでしょうね。
解釈誤る偏った個人主義に捉えられるかも
しれませんが、まず自分の幸福感は
なににどう反応するのか考えてみることから
なんでしょうねえ

わたしは、そういう腹をたてる
ちょいす姉さんを好ましく思うし
そういう誠実さこそがあるべき愛の領域に
一番近い位置にあるのだと思うけどね。

いずれにしても理論と実践がともなっての話です。
ただ、この理は最初に正して確認しておかないと
行動に結びつかないものなので
そうそう馬鹿にはできないと思うのだ。

とこんな感じですすめていこうかな