あかんたれブルース

継続はチカラかな

自立できているのかどうか

愛する技術という発想(3)


やまさんからは無償の愛を提示された。
そうだよねえ誰にでも、とはいかないよね。
またそれを強要されたり自慢されたりした日には
鼻を鳴らしてしまいたくなる馬ちゃんです。

甥っ子さんの話から思うのですが
人間の性質について
性善説性悪説の論争は古代から現在に至って
いまだ決着がつきませんが
これは絶対に性善説が正しいのだと思う。

子供っていうのはそれを立証させる存在だ。

そういうと子供ほど残酷なものはない
と切り返す人もいるでしょうが
フロムは子供の残酷性(サディズム)を
知の探求だと捉えているようでした。
昆虫や小動物を、時計をオモチャを
バラバラにしてしまう性癖はそのあらわれなのだと。
大変興味深い考察です。

逆にいえば悪い人間なんてそうそういるもんじゃない。
本能的に人間は善行を行いたくて
仕方ない代物だ。
それは本能として、ですから
誰も止めることはできない。

ではなんでこうなるんだろう?

考えてみるのですが
それは質というか内容というかセンスというか
もっとぶっちゃけていえば
セコイかどうかいうことであって
セコイ善行は本人は別としても
他人によっては臭みばかりが先にたつものであり
また本人もどこかでそれを嗅ぎ取っている
のかもしれなせん。
鼻の悪い人もいるし個人差があるので
そこはセンスを磨くという訓練も大事なのでしょう。
要はそういう欲求に対して
正当に満足できる行動ができるかどうか
フロムはそれを自立と位置づけているようでした。

無償にはそういう臭みがない。

善意が純製のマブネタなのだ。
ただし、現在の愛の価値観ではそれを受けとる
相手側にはオーダーメイドでなければ
満足しない人も多いでしょうね。
「あなただけ」「特別な」
その他大勢とは差別化して欲しい!
厄介なものでう(笑)

ま、こういう問題(混乱)は
私たちの足場の環境に影響されるものです。
そこを注意しないと本質をはずしてしまう。

わたしは愛を自己愛と無償の愛から成立つ
としましたが、この相反するものは
極めればイコールとなる。
従って無償の愛は自己愛と結ばれる。

その汚れ無き甥っ子さんは
純粋な人間の性質をまだ持ちえている。
逆にいえば社会性の成長が遅れている
という意地悪な評価もできるでしょうが
ここでいう社会性のプロセスがはたして必要か
どうかは大いに疑問です。
そのままのスタンスで成長を遂げることだって
ありますからねえ。
そのなかでどれほど傷つくかどうかは
個人の問題であり
その解決策が純正を否定することではない。
これは確信をもっていえることです。

つまり
私たちが余儀なくされる
社会性こそが
愛を愛されることであると思い込ませる
ルールのもとで成立っている。
さてさてこれとどうやって付き合っていくか
付き合っていかなければならないか。
これが厄介なのだ。

健全なものを変わり者と囃し立てる社会
少数派と多数派の逆転はかなり以前からあった
わけですね。