あかんたれブルース

継続はチカラかな

愛を語るには早すぎるのか

愛する技術という発想(52)
中島みゆきは知っている [命の別名]


みゆき嬢の「命の別名」というのがありまして
You Tube でオリジナルを探したら
http://www.youtube.com/watch?v=yiHBomes7co
・・・進撃の巨人かあ
観てはいないけど話題のアニメだよね。
昨年の紅白にも登場していた。

みゆき嬢の「命の別名」をネタにして
愛について語ろうと考えたのですが
それ以前に考えさせられてしまった。

この歌(歌詞)には

 命に付く名前を「心」と呼ぶ

と、なんとも厳しい歌なのだ。
歌詞だけじゃなくみゆき嬢の歌声も厳しい。
彼女の曲調はシャンソンだったり
演歌だったり歌謡曲だったりモロフォークだったり
知床旅情だったりいろいろですが
ある時期からこういうメッセージソングというか
劇的なのが増えましたよね。

 知らない言葉を覚えるたびに
 僕らは大人に近くなる
 けれど最後まで覚えられない
 言葉もきっとある

 何かの足しにもなれずに生きて
 何にもなれずに消えてゆく
 僕がいることを喜ぶ人が
 どこかにいてほしい

 石よ樹よ水よ ささやかな者たちよ
 僕と生きてくれ

なんとも哲学的だよなあ
さて、愛についてですが私たちはこの愛を
よく理解できていない。
たとえばそれは優しさについても
同じことがいえると思うのだ。
優しさと愛は同義語のようでもあるのは
そういう曖昧さのためじゃないだろうかね。

愛は地球を救う
なんてスローガンがありますが
慈悲や慈愛の、そして優しさが万能薬のように
思ってしまうのが人の常です。
私もそのクチなのですが
ところがさ、
優しさは万能正露丸オロナインじゃない。
「馬太郎、あなたのやさしさは残酷よ」
なんていわれた日には
固まって荒川ドデから簀巻きで転んで土左衛門だ。

真面目に(汗)
慈悲や慈愛では救えない
こう考えたのは曼陀羅の人
古本屋の店員じゃないよ空海
西遊記の豚じゃない!自衛隊でもない!
弘法大師だ。
そう考えた空海は中国から
怒りの仏像を持ち帰ったそうです。
毘沙門天とか不動明王とかだね

それまでの飛鳥奈良時代の仏像
つまり仏のイメージは慈愛と慈悲の優しい表情
対して怒りの仏像はうちのカミサンのようだ(涙)
リアリティーがあって平安仏教美術
大いに発展させたそうな。
信仰を漠然としたものから
リアリティーのあるものに踏み込ませたのかもね。
空海は決して脅しで民をひれ伏そうと
思ったわけではないんでしょうが
優しさだけじゃダメなんだとは考えたわけだ。

気休めや慰めだけで済む話なら
誰も苦労はしないもんね。
人生とか生きる事は厳しいといわれる。
そりゃそうだ。それはみんな認める。
でもそれは他人にとやかく言うのではなく
まず自分に厳しくないとあかん
ところがあるんじゃないか。

 くり返す哀しみを照らす 灯をかざせ
 君にも僕にも すべての人にも
 命に付く名前を「心」と呼ぶ
 名もなき君にも 名もなき僕にも

みゆき嬢の「命の別名」にはそういう
厳しさがある。

という記事にしたかったのですが
そこに『進撃の巨人』だよ。
で、さあ・・・考えたんだ。

こういう厳しさって
有事とか非常時とか修羅場とか
極限の、崖っぷちの、それこそ生死の境とか
巨人や怪獣が暴れださなければ
通用しないのかもしれない。
人間は追い込まれないとなかなか変われないし
わからないものです。
それもとことん、すっからかんになるまで
残高がなくなるまで。
下手にあればあったでまだ過ちを続ける。
なんとも厳しいなあ(汗)

ということは
つまりは、愛は語れないってこと?
日常のなかのそれは甘いお約束のなかの
戯言になってしまうのだろうか?
絵空事なの?

優しさにしても
武田鉄矢の歌にあるように
♪人は悲しみが多いほど人には優しくできるのだから

だとすれば、私たちはあとどれくらい
悲しい思いを味あわなければならないのだろうか
あとどれくらい追い込まれなければならないの?

御免だね(汗)


 たやすく涙を流せるならば
 たやすく痛みもわかるだろう
 けれども人には
 笑顔のままで泣いてる時もある

 石よ樹よ水よ 僕よりも
 誰も傷つけぬ者たちよ

 くり返すあやまちを照らす 灯をかざせ
 君にも僕にも すべての人にも
 命に付く名前を「心」と呼ぶ
 名もなき君にも 名もなき僕にも