あかんたれブルース

継続はチカラかな

「愛と誠」か「愛か誠か」か



哲学はソクラテスによって
「哲学的愛知」としてプラトン、そして
アリストテレスに受け継がれていきます。
その過程で哲学を「知を愛する」とされた。
ここではバカ直訳で「愛を知る」とする
というのが前回のお話でした。

真理を追及するための哲学
というよりも、それこそすべて愛そのもので
愛を知ることが哲学の目的だったのではないか?

それをちょびっと裏付ける逸話があります。
つまり、では愛とはなんだと。
ソクラテスはまずそこから考えた。
が、よくわかんない。
そこで愛に詳しいという
ディオティマという婦人に聞きにいったそうな。
それは愛の神エロスの誕生の物語でした。

美の女神アフロディーテの誕生を祝って
神々のパーティーがあったそうです。
そこで富の神ポロス(男)は酔っ払って
庭に寝込んでしまった。
そこに通りかかった貧乏神ぺニア(女)が
ポロスの富の霊験にあやかろうと
その横に添い寝したといいます。
「お種を頂戴」というわけで
せめて自分の子には貧しい思いさせたくない。
で見事懐妊。
生まれた子がエロスなのだと。

愛の神エロスは福の神を父に貧乏神を母にもち
それぞれの特性を色濃く受け継いでいたと。
父の遺伝子が赤なら母は青だからエロスは紫。
父が青で母が黄ならエロスは緑
父が白で母が黒ならエロスはグレーだ。

富の神ポロスは充実・完全の象徴
貧乏神ぺニアは欠乏・不完全の象徴
満たされるものと満たされないものの間に
愛は存在するというわけです。

なるほどです。
満たされたものは愛など求めない。
困窮極まったものはそれどころじゃない。
だけでなく、そこには傲慢やエゴがある。
満たされたものは何も必要としないし
逆に満たされないものの極地は無知蒙昧の
闇に閉ざされてしまう。

ソクラテスの基本スタンスは「無知の知」で
要は(自身が)知らないことを知っている英知
でしたよね。
愛はそういうところに存在するわけだ。
なんかこれって説得力あるよなあ

満たされないがゆえに人は愛を求める。

たとえが良いのか悪いのわかりませんが
瀬戸内晴美が愛欲の炎に身を焦がし
救いを求めて仏門に入り瀬戸内寂聴となった
みたいなものでしょうか。違うか?

ま、そんなところで未熟が所以に
だからこそ愛を求めえてやまないわけだ。

哲学の解釈を「知を愛する」とするか
「愛を知る」とするかで大きく意味合いが
違ってくるのは、その知の解釈にあって
自身の無知を自覚しないで
偽りの知にあぐらをかいたり自惚れたり
することと、その虚偽の知に対する
不信や懐疑、そして激しい拒絶反応だ。
ここに争いが起きる。

ここに正論同士の争いもあるだろうし
真理に対する解釈もまた違ってくるのかも。

無論、それを哲学を日本語に訳した
西周だけのせいにはできないわけで
ソクラテスの弟子プラトンからすでにそういう
解釈がなされていたわけですからね。
ただ、ひとついえるのは
私たち日本人はいまだ愛に関しての認識が
非常に曖昧だってことじゃないか?
そして哲学は違った小難しいものに変容し
いまは誰も見向きもしない。

愛を知る

それを知るために生まれてきたようなもので
そのことは人間の死活問題である。
なんてね思っただけなのさ

それにしても
梶原一騎の『愛と誠』というタイトル
よくできている。