あかんたれブルース

継続はチカラかな

エリーの複雑な親心



『マッサン』ではエマの結婚をめぐって
めずらしくエリーが感情的になってる。

エマはまだ子供で「愛」を知らない。
ということですが
女学校を卒業したから19歳ぐらいでしょうか?
エリーのいう幼さ、まだ早すぎるは
年齢のことなのか、それとも
エマの精神的な成長度(世間知らず)を
観察してのことなのか?

ここから
好きと愛しするは別なのか
という問題が生まれる。

当時の日本で19歳はそう子供じゃない。
結婚してた女性は多かったんじゃないか?
どっちかというと適齢期にあたる。
ドラマでは赤紙召集令状)を気にしてた。
それを理由にとにかく結婚を急ぎ
種の保存に邁進するという世相もあった
わけです。

19世紀末まで、欧米でも
恋愛と結婚は別モノだったといいます。
家同士の結びつきの意味合いが強かったそうで
日本とそうかわらなかったとか。
恋愛結婚は20世紀に入ってから
アメリカで生まれた思想だとか。
開拓移民の新興国でそんな流暢な
環境じゃなかったのでしょう。

大英帝国のなかのスコットランド生まれで
1896年生まれのエリー(リタ)が
東洋人と恋愛し結婚したことは
当時としては反逆に近い扱いを受けたことは
想像できますよね。

そのエリーが娘の「好き」という思いを
拒絶してまで結婚に反対する。
これをただ単に親の煩悩と解釈していいものか?
エリーの「エマはまだ愛を知らない」の思いに
こそ、エリーの切実な思いがあるのではないか?

最近、CMで「愛ってなんですか」という
(十代のタレントの)台詞があります。
これって70年代にもあったなあ
(タレントの名前は忘れましたが)

こういうのを未熟な若者の、とか
何をいまさら、なんて考えるむきもありますが
だったらあんたはわかるのか?
てな感じです。

好きと愛してるとは
似ててはいても
どうも違うようです。

麺類が好きと麺類を愛してるとは違うように
しかし表現として曖昧でゴッチャになってる。
これは食い物と恋愛と一緒にできない
というのではない。
パスタを蕎麦ラーメンを
愛する人だっているでしょう。
耳に心地よい「愛する」という表現が
乱発され氾濫して「愛」が暴落してる
というのが今の現状ではないのか。
もっと踏み込めば
恋愛も恋と愛をひっくるめているわけで
恋と愛も違う。
結婚も同じなんだ。次元というか順序というか
好きとか恋は樹木でいえば花みたいなもので
愛は果実みたいなもの?
うまく表現できませんが、なんとなくわかんない?

エリーは言う
「ワタシはエマに幸せになってほしい」

そこに、失敗してほしくないという
老婆心的な親心があることは否めないけれど
その幸せとは、愛というものをもっと
理解してほしいという親心があるのではないか。

結婚っていうのはある種の勢いですからね。
その勢いを否定はしない。
ただ、現在の日本の離婚率は約3割で
三分の一のカップルが結婚に失敗しているそうな。
エリーの時代は
まだ見合い結婚なんていうのが主流だった
時代のことですからねえ。

ま、エリーからみて娘がもっとしっかりしてたら
こうまで心配はしなかったのかもしれない。
もっといえば、エリーは愛を知っている。
酸いも甘いも知ってる豪の者だ。
じゃなかったこんな極東の島国くんだりまで
マッサンについて来ないよ。来れません。

エリーはエマに幸せになってほしい。
それには、だからこそ愛についてもっと
理解してほしかった。

愛ってなに・・・