あかんたれブルース

継続はチカラかな

エリーの複雑な親心 2



「Love」の和訳を
西周及び明六社の人たちは「愛」と訳した。
それをいまさらどうこうはいいませんが
本来の「愛」の意味は
それとはちょっと異質なもののようです。
直江兼続の兜の愛ね。
儒教ベースの仏教の愛。
苦し紛れに捻り出したともいえる。
ま、当らずも遠からずといったところでしょうかね。

そこでそれに一歩踏み込んだのが
二葉亭四迷の愛とは、
「死んでもいい」につきるわけだ。

それはまるで昔の松竹梅のCMで
石原裕次郎宇野重吉の禅問答のように
「然らば裕次郎、人生とは」
「飲むことよ」
ぐらい、スッコーンとしてて
それ以上に正鵠を射る三連単一点買い的中
ロト7一点買い的中しかもキャリーオーバー!
みたいなものでした。

因みにこの二葉亭四迷は作家という以外に
軍事探偵という裏の顔をもっていました。
日露戦争前にハルビンなんかにも出没して
いた人で、死と隣り合わせで生きていた。
だから単なる作家の机上の妄想ではなく
この「死ぬこと」という言葉には凄みがある。

エリーだってそうだよ。
日本に来るということはそういう思いがあった。
そんなエリーが
「ワタシはエマに幸せになってほしい」
この言葉には愛を知ってほしいと同時に
失敗させたくないという思いがあると思うのです。
親心の煩悩とか過保護ともいえますが
それをとやかくいうよりもそこに愛の本当の
意味とか意義がある気がする。

陽明学のように自ら火中に入って
身を持って学ぶというのも十分アリだと
思うのです。
松坂慶子が歌ったように
♪これも愛あれも愛
という思想を否定はしない。そうなんだろう。
しかしその歌詞の次には
♪たぶん愛きっと愛
というメイビーな希望や願望が付随されていて
レース前に発売所に並ぶ親父や
宝くじ売り場でマークシートを塗りつぶす人々の
鼻唄ぐらいのものではないかと。

わかったようなわからん記事なのかなあ(汗)

愛を自己愛と無償の愛としました。
自身が定まらないなかで、自分を愛することが
できないところに愛なんて生まれない。
また、何か条件が変化すればドン引きする
そういうのをいちいち愛とするのも奥がましい。

好きと恋と、愛は違う。
当ったか外れたか、そんなの関係ない。

買ったときから大当たり
200円300円じゃあ買えない。
「命札」それが愛だ。