あかんたれブルース

継続はチカラかな

宗教の救いと限界

沁みる八日目の蝉(2)


『八月の蝉』で母子が一時匿われる
エンゼルホームというカルト集団が登場します。
哀しい女たちの駆け込み寺ですが
世間からは隔離された、また阻害される集団。
まるでオウム真理教をイメージさせます。
男子禁制の修道女でした。

共存のようで排他的・・・

共同体を否定するものを世間は許さない。
わたし自身、新興宗教はだ~い嫌いだ。
それなのにこのエンゼルホームには救いがあった。
にも関わらず、主人公の母子はそこから逃れる。
あのままあそこにいたら・・・
マロンちゃんはあのままそこで育ち
男性恐怖症となり、異性を愛せないと嘆いていた。
やっぱり不自然な環境だったんだね。

飯干晃一が娘をカルト教団から
奪回する情熱も十分理解できる。
そういう家族の被害者組織としての活動と
北朝鮮に拉致された被害者家族とも
重ねてしまうこともあります。
反面、事そこに至るまで迂闊だった家族の絆
社会のあり方にも疑問を感じる。

知り合いで多摩地区の元学校長がいました。
いたって普通の一般的な教育者の彼は
定年後に地区の福祉施設の所長となる。
そこは発達障害の児童を保護、教育して
もとの社会に戻す業務を行っていた。
その施設に預けられる児童をみながら
こういう普通で一般的な彼でさえ
発達障害とされる子供たちが単に個性的であり
それを矯正してもとの社会に戻すことに
危惧というか疑問を感じたと漏らしていました。

排斥排除しようとするくせに
引き戻すとする。
『八日目の蝉』では
排斥されるべきエンゼルハウスという集団
に対して、その入信者の家族が引き戻そうとする。
エンゼルハウスの住人はそれに絶叫していた。
それをどっちの立場で傍観していいのか・・・

なにがまともでなにがまともじゃないか
わたしはわからなくなるときがある。
「いじめが横行するような場なら逃げてしまえ」
ようやくそういうスタンダードが出てきた。
それでも
逃げることは不味いことなのか?

この日本国のなかで逃避行する手立てとして
やくざには同業者の世話になる(旅を打つ)
があります。
それ以外を考えると
『ストリップ血風録』のサーカス
もしくは帚木蓬生『逃亡』の新興宗教団体か。
『逃亡』は著者の父親を主人公とした
限りなくノンフィクションに近い小説でした。
犯罪者ではなく戦犯として逃亡していた。
匿ってくれたのは金光教だった。

既成宗教と新興宗教の線引きはどこ?
幕末から明治にかけて日本では新興宗教
たくさん誕生しました。
創価学会も池田創価学会ではなく
牧口常三郎からさかのぼれば昭和5年
それでも新しい部類ですね。本来は日蓮宗ですが。
甲子園で御馴染みの
天理や智辯、PLなんかもそうです。
生長の家霊友会立正佼成会などなど
こういった戦前のものと
戦後の幸福の科学とか統一教会とか
オウムなどのカルト教団とは
またちょっと違う感じ。

勢力の大小は関係ないようです。
古くはキリスタン迫害から
戦後であれば大本教の弾圧まで
現体制と異質であれば糾弾されてしまう。
ただし、
統一教会も強引な勧誘や霊感商法や事件
オウム真理教のテロ活動などから
新興宗教はすっかり様相やイメージを
変えてしまった。

『八日目の蝉』のエンゼルハウスは
特に誰かに危害を与えるものではなかった。
あれが真宗とかお寺さんできれば尼僧さんの
駆け込み寺であればそう問題はなかったと思う。
キリスト教でもあっても救世軍と変わらない?

社会が、法が、(良くも悪くも)人権が
不甲斐ないから。
根本にはこういう要因があると思う。
無論、資本主義社会の「格差」も無縁ではないし
貧困や弾圧、差別もある。
共産革命とかイスラム原理主義のテロも
こういったなかから生まれている。

映画『王将』に出てくる能勢の妙見さん
あれは日蓮宗のようですが
馴染みのないわたしらには新興宗教のように
映る。それくらい迫力があった。
それは貧困と重ねる演出に用いれていました。
その舞台の近くの大阪天王寺にある一心寺は
上方落語にも登場する由緒正しい浄土宗のお寺。
ここにお墓なしで納骨する人は実に多い。
その参拝者の数にのまれて
地方出身でお墓信仰に染まっている自分には
意外な光景でした。

信仰や宗教はある種の救いなんでしょうねえ。
それでも、『八日目の蝉』の母子には
そこも安住の場所ではない。
そう選択した母の逃れの町は
瀬戸内の小さな島だった。