あかんたれブルース

継続はチカラかな

ノープロブレム無情



学校内のいじめが社会問題となって久しく
それをテーマにした映画も多数製作されています。
そんななかで『問題のない私たち』を鑑賞。

この作品は「赦す」という考え方を
解決の最大のキーワードとしています。
また、このいじめの性質に
誰が加害者で誰が被害者(ターゲット)なのか
その加害者の実体が曖昧な原因として
無責任というものを浮き彫りにしている。

問題のない私たちとは
責任のない私たちとも読めるわけで
これは生徒だけではく
教師や保護者もあてはまるわけです。

この『問題のない私たち』で
いじめ問題を90分でえぐり解決させるのには
多少無理があったとは思うのですが
この作品はそれを全体の3分の2で収め
生徒対生徒から
教師対生徒のいじめ・パワハラまで拡大させた。

学校という社会において
教師は絶対的な権力・権限をもっている。
それが評価につながるので
生徒や保護者には脅威になってしまうものです。
M(問題)教師の問題と同時に
問題児やモンスターペアレントの存在も
あって、まことに悩ましい。

わたしはどっちかというと教師の権限を
もっと尊重させるべきの意見でした。
バカ親の類が多いから
だったんですが、同時にバカ教師もいる
わけで、なんともはや(汗)

要は能力の低い者に権力や権限を与えると
ロクなことにならない。

学校という狭い世界のなかのことですが
現代社会の縮図みたいものですかね。

いじめについてはDVや虐待・差別同様に
昔からあったという指摘もされますが
その捉え方はズレてると思いう。
いうなれば現代の社会問題化したいじめは
過剰な管理社会に対するヒステリー現象では
ないのかなあとも思う。
と、無能な人間の力の支配という手口になっちゃう。
戦前戦中の軍隊がよい例です。
日露戦争と太平洋戦争当時で大きく違う。

この『問題のない私たち』という作品は
ある意味で欲張った野心作でもありますが
その分、ツメの甘さを否定できません。

その甘さとは
「加害者ではない」的な
教師や保護者の「無責任さ」なのだ。
作品ではヒロインの父親に対するガツンは
あったのですが、
学校長(学校側)の体たらくへのガツンが
なかったのがなんか不完全燃焼というか
モヤモヤ感が残りました。

目には目のハムラビ法典ではなく
赦すというのは日本人特有の考え方です。
が、それを行うにはタイミングがある。
それを見誤るととんでもない結果を
うむものです。

外交も人間関係も同じ。