日本人の恥の文化について(7)
恥の文化を、嫉妬の話に展開させてみたのですが、
さて、少し厄介なことになりましたかね。これだけで凄い量になりそう(汗)。
と、昨日、東三河通信さんの推奨本、三木清の『人生論ノート』が届きます。
昭和29年から数えて平成2年まで83刷。
多くの読者に愛されたか名著。
少し、三木先生のお力を拝借。
嫉妬は情念の産物のひとつですが、
なんら建設的でもなく発展性を見込めず、その価値を認めない。
嫉妬と愛は密接で似ていますが、
愛から嫉妬が生まれることはあっても、嫉妬から愛は生まれない。
なんか、「愛の十字路」みたいになってきましたね(汗)。
日本人の恥の文化についてでした。
村社会である日本人の環境の中で、
その秩序と安念をたもつのに「みんな一緒」という横並びの関係が非常に重要のようです。
私たちはどこかで嫉妬する以上に嫉妬されることを恐れていませんか。
格差社会を問題視する声をよく聞きます。実際に大きな問題であることは確か。
しかし、ここに日本人の特性も考慮すべきだと思う。
私たちはどこかで従順で素直なあまり、横並びの貧困ならば我慢は容易い。
けれども、隣人や知人が、その枠組みから浮き上がることを恐れます。
そこに嫉妬が生まれる。
なにも嫉妬は日本人だけのものではない。けれども、
たとえば、アメリカ人は格差社会に対して非常に肯定的だという事実が存在する。
医療費が払えずに、病気や怪我の治療のできない国民が多いなかで、
保険制度の見直しよりも、高額所得者の税金を心配する貧困層。
ここにアメリカンドリームという神話が存在して、
彼らはそれを夢見て、宝くじを買い続けているのです。
日本人は突出すること忌み嫌い、みんな一緒を喜びます。
どっちがいいのか? まるで見当がつきません。
そういった共同体やサークルという村社会から、
もし仮に一歩踏み出ようとした場合、必ず、抵抗にあうでしょう。
やめておけ。危険だ。と、普段は働かせない想像力を総動員して
親切心という体裁で足をひっぱる。これも嫉妬です。
また、出る杭を調整する本能も嫉妬といって過言ではありません。
日本人の嫉妬は精神的な秩序を守る防衛本能として存在する場合が非常に高いようです。
嫉妬の属性は悪に最も近いといわれるのに、それを秩序の戒律として用いる。
狡猾で術策的で、一見正当性を着飾って干渉する。
悲しい性を背負っています。