あかんたれブルース

継続はチカラかな

北の王子と南の王子

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これはあくまでも推理としてです。

堀川辰吉郎の「堀川」とは京都の堀川御所をさしているといわれます。

辰吉郎自身も「出身は京都の堀川」といっている。
出生届けにもそう記されている。

京都の堀川には御所はあっても民家は存在しない。

維新後の明治四年に皇族は東京に移転しましたが
全員ではなくこの堀川には残された女官たちも多かったそうです。

巷のトンデモ話に孝明天皇の子である明治天皇
すり替えられたという説がある。
見づらいですが上が維新前の明治天皇の少年期の写真。
まったく別人じゃないか!といいたいが写真が悪すぎますね(汗)。
ただ、もともとが右利きだったのに、維新後は左利きというのが
変な話です。
その逆なら矯正したですみますが、わざわざ左利きに矯正しますかね?

ここからは仮説の推理です。
もし、仮に、この堀川御所に本来の孝明天皇親王である
明治天皇になるべき王子がいたとします。
本来の北朝天皇ですよ。
この帝が女官との間に子を作ったとする。男のです、親王。仮説ですよ。
この親王は決して表には出られない。

孝明天皇暗殺疑惑と共に明治天皇すり替えと暗殺疑惑があります。
北朝から南朝への・・・
わたしはそれをどうこうジャッジする資料もなければ資格もない。
で、推理として、それはあったとしても
いかな長州でもその親王を暗殺はできなかった。と思ってください。

後ろめたさがあった・・・

たとえば、明治天皇正室だった一条美子は昭憲皇太后と称される。
本来、「皇后」とされるべきなのに、なぜか「皇太后」とは?
最初からずっと「皇太后」のままなのです。これは不自然。
この指摘ばかりは、わたしも無視できない。
つまり、昭憲皇太后明治天皇の前の天皇の皇后だったことになる。
前の天皇孝明天皇とするのではなく、
その間にもう一人いたとすればどうでしょう?

一条美子(昭憲皇太后)は
1849年(嘉永2年)4月17日誕生。従一位左大臣一条忠香の三女。
1867年(慶応3年)7月(6月)、新帝明治天皇の女御に治定。とあります。

この時はまだ女御です。正式に1年半後の1868年(明治元年)12月26日。
そして、東京移転が明治四年。
この5年半の間に・・・
つまり、一条美子は明治天皇ではなくその前の明治天皇に嫁いだのではないか?
だから、皇后ではなく、皇太后なのか。仮説です。

仮説は続きます。そして封印された北朝帝は飼い殺し、幽閉、軟禁された。
ところが子供が産まれてしまった。
この扱いに困ってしまった。

そこで井上馨の私生児として、井上の兄・重倉の五男として届けられ
(この頃、井上は大阪で造幣頭として常勤していた。)
その後、福岡で育てられた。

福岡には
南北朝正閏とは、
どちらも、正統ではないが偽物ではない
(かまわない)とする尊皇家で旧黒田藩の頭山満杉山茂丸がいた。
県令には旧熊本藩士で横井小楠の門下生四天王の安場保和が庇護した。

これならスッキリします。

ま、別にスッキリしたいからって無理にこじつけしているわけじゃない。
仮説、推理ですよ、私的な。




分類は「若宮」
明治男前烈伝(10)堀川辰吉郎(8)