あかんたれブルース

継続はチカラかな

『手と声の輪』〜テーマ「ゆとり教育」

この記事は、『手と声の輪』として企画された
第4回「教育」三部「ゆとり教育」に寄せた記事です。
http://blogs.yahoo.co.jp/haru_zion_haha/8154612.html


「最近の学校では文武両道なんて無理みたいよ」

朝食の途中に妻が零した一言。
詳しく聞いてみると、中学でも高校受験中心の勉強の量が膨大で
物理的(時間的)にクラブ活動との両立は難しいと保護者の間で語られる現実だそうな。
だからスポーツバカに徹するか、ガリ勉に徹するかしかないのだという。

そんなばかな・・・
ちょうどその頃、ブログで中野正剛(柔道)と緒方竹虎(剣道)の
記事を書いてので、余計にそれを否定してはみたのですが・・・
その数日前の立食パーティーでの雑談を思いだした。
元お茶のみ大学付属小学校の教諭で、現在「大学入試制度全廃」を訴える
古市憲一氏と閑談していると、大学試験問題に詳しい高田昌史氏が加わって
最近の入試問題がおかしいと語る。たとえば、
元寇のときのモンゴル側の各師団長を答えよ、という問題があったりする。
高田氏は世界史が専門だったりするけれど、
こんなマニアックなカルトクイズのような問題は考えられないと。
そこで、知り合いの大学関係者にリサーチしてみたそうです。
すると、出題者側にしてみるとそうでもしないと順位がつけられないのだと。
つまり、こういった問題を挿入することで「篩(ふるい)」にかけているわけだ。

当然、教科書にあるわけない。
生徒が学校の授業だけでなく塾に通って学ぶ受験対応学習には
こういった教科書外の専門(?)知識を覚え込む作業があるわけですね。
これじゃあ、時間がいくらあっても足りないわけだ。

しかし、モンゴル軍の師団長の名前なんて・・・覚えて意味あるのかな。
歴史オタクである馬太郎でさえも首を捻る。

批判されているゆとり教育の裏ではこんな格差が存在しているわけです。
それを「教育の格差」と問題視されているようですが、
なんか問題の本質はそこじゃなないぞ。

このゆとり教育の問題提議には世界レベルから比較しての
日本人の学力低下が要因となっていると思う。

さて、わたしは昭和34年(1959年)生まれです。
ゆとり教育に対する詰め込め教育のピークは翌年の昭和35年(1960年)組
だといいます。いわば、詰め込み組の天井に位置するわけだ。
この年から偏差値が登場しますが、私達はギリギリ知らない。
それでも詰め込み教育時代の代表選手ではあるわけです。
かといってわたしが勉強してたわけじゃないですよ。(コメント欄参照)
わたしはどこに出しても恥ずかしいバカです。

よし姉さんはよく「馬ちゃんは賢(かしこ)や」といいますが、
それは、よし姉さんが「アホ」だからで、その比較からすれば
わたしは「賢(かしこ)や」です(苦笑)。
アホといえば、元ヤンキーのJJ.も不登校だった春風もアホです。
米100キロの破綻の経済学者ルイちゃんも筋金入りのアホだ。
しかしさ、彼ら彼女らは知的なんだな。
なにかとわたしを批判する寅屋だってアホだけどキラリと光るアホだ。
しきちゃんはダメですが。(涙)
その知性とはコミュニケーション能力と思考(想像)力なのですが。

対して、東大京早慶筑波大外語大など有名高学歴者と深く付き合ってきたけれど、
みんなそれぞれアホを抱えている。唖然とするほどの愕然を背負っている。
社会に出ると学歴はあまり関係ない。
結局、日本の学力学歴は就職のための空手形のようなものでしょうね。

こういった大学神話とゆとり教育に歩調をあわせる「塾」という存在がある。
この塾っていう発想は欧米には存在しません。
もともとは儒教の関係からで、科挙制度の産物なのだな。
でもねえ、中国韓国の歴史をひもといて結局その末路がどうなったか。

いま、日本の企業が危惧しているのは新入社員(大学生)の
コミュニケーション能力の低下による弊害だといわれます。
そのことは過去に記事にしました。
それでもどこぞの大手企業の人事部役員は「偏差値だ」と胸を張る。
これは、それでしか判断できない総務・人事部の無能でしかない。
パナソニックだったか、ユニクロでしたか
本年度の新卒採用の八割が外国人だったそうです。
就職手形の神話も怪しくなってきましたぞ。

時代が大きく変わってきている。
国際人を育て上げるには語学は必須だとは思います。
しかしさ、たとえば語学に問題がない日本人同士でも交渉事には
個人差がありますよね。
やくざと交渉したよし姉さん、警官をふりきったルイちゃん、
ノンケをかんねんさんせたJJ. 、ロマンさんを説得し続ける春風・・・
彼らにはそういった知性・能力がある。
立場とか肩書きとか関係なく、それはあるわけです。


詰め込み教育とか、ゆとり教育とかの問題よりも
空洞化形式化している日本の教育の現状を捉えて、
もっと教育の中身について考えなおさないと日本はダメになる。
そう思いませんか?


『手と声の輪』第4回3部〜テーマ「ゆとり)」
この記事は、『手と声の輪』
http://blogs.yahoo.co.jp/haru_zion_haha春紫苑『Hand In Hand』参照)
企画として書いた記事です。