あかんたれブルース

継続はチカラかな

高倉健の生き様と自己完結

男は黙って醤油ラーメン・7

トリックスターさんからのコメント
>映画という銀幕の世界、いわゆる虚構の世界でこそ成り立っているヒーロー、でも観客にとっては自分自身に反映して、こうありたいとの願いだと思うんですよ。
>それが今の映画界にはないし、ヒーローは存在しない。日本人が「頂き」つまり「富士山」を見失ってしまった、そういう時代に入ってしまいましたね。
>もっとも、ギスギスした現実があまりにリアル社会で起きすぎていますしね。


映画とは、そして俳優とは
高倉健の死はそれを教えてくれたと思う。

映画ってさ、芸術的ではあっても
芸術じゃない。
映画は夢であり、観客のためにあるもの
娯楽といってもかまわない。

俳優のなかでもその映画会社の
その時代を背負う看板スターが存在する。
東映
・・・錦之助→高倉→文太・・・
と変遷を遂げたわけです。
主役というものはただ演技が上手ければいい
ってものではない。
高倉健という映画俳優が背負ってたものは
時代と観客の夢だ。
それは日本人のひとつの生き方の見本
だったと思う。
それは三船敏郎勝新太郎裕次郎
旭も錦之助も文太同じ。
それがスターってものであって
高倉健はわたしたちにとって
北極星のような存在だったのです。

若者は模倣から一人前になっていく
父親とか幼友達とか友人、先輩、教師、上司・・・
書籍や、映画なんかね。
感情移入して惚れこんだりして
それを模倣するもんなんだ。

わたしも高倉健に憧れたんだと思う。
でもさ、自分には無理だと思ったよ。
いろいろな意味でね。

健さんとは違う生き方を模索した。
もっと器用に立ち振る舞うこと
もっと違った強さを身につけること
転んでもタダでは起きない
我慢なんかしない
反則だろうがなんだろうが平気なタフガイ。
いざとなったらどんな離れ業でもやれる
臨機応変自由自在などなど

そういうのを身につけたらなんとかなると
思っていたんだよねえ。

若者の特性としてもうひとつ甘えがある。
明らかに器量の大きな相手に挑戦する。
勝ち負けじゃない。
勝てるなんてハナから思っちゃいない。
そんな馬鹿でもないんだけど
甘ったれなんだ。
ハッタリでもなんでも挑戦することに意義がある。
そして負けても大怪我はしないという
甘い打算がある。

そんなわけで高倉健に背を向けていました。
八甲田山』も『動乱』も『海峡』も
観ていない。
観なくてもわかるしね、とか。
『夜叉』は観たよ。
組織人としての高倉健
残侠のままの健さん
それでも健さんにはなれないからね。
それがいつのまにか五十を過ぎてしまった。
昨夜33年ぶりに『 駅 STATION 』を再観して
わかったんだ。
すべて解けたような気がした。
上記のトリックスターさんのコメントの通りだ。

わたしがなんで北野武の作品に
噛み付いていたのかこれもわかったよ。
園子温を絶対認めないというのも。

結局さ、高倉健がその生き様と
その死で教えてくれたということになる。
なんという俳優。映画スターだったのか!

やっぱり俺には無理だけど
尊敬はする。
ふと、ウディ・アレン
『ボギー!俺も男だ』を思い出す。

健さん!俺も男だ(涙)