あかんたれブルース

継続はチカラかな

文科省推薦『仁義なき戦い』

山守さん弾はありゃせんがの(6)


これほどの名作なのに
仁義なき戦い』の何が問題なのか?
単行本の表紙をイラストでと考え
山藤章二にお願いしたところ
「僕はやくざは嫌いです」ときっぱり断られた。
頭の悪いイラストレーターだとあきれた。
朝日御用達の有識者の見識はこんなものかと
納得もした。

知り合いの女性ライターに推奨したところ
「残酷なのは駄目だと断られた」
彼女はフェミニスト反戦
発展途上国の平和と民主化にも熱心だ。
因みに彼女の購読新聞は朝日なんだけれど(汗)

「残酷」ってなんなんだ?
観念的に生み出される残酷。
映像で映し出される残酷。
仁義なき戦い』は
その残酷の手前にある、先にある残酷を
深く考えさせてくれるものがあった。

いずれにしてもイメージや思い込みだけが
先行してレッテルを貼る。
こういう人たちにいくら『坂の上の雲』への
批判は無理筋だっていっても通じない。
たぶん永遠に『仁義なき戦い』を知らずに
暴力団追放運動を叫ぶのではないか?
もしくはちゃっかり観てるかも
観てもなんにも変わりはしない。
自分の都合のよいように理論武装してしまうのだ。
そういう人はどうでもいいんだ。

普通の人に観てほしいのです。

仁義なき戦い』がやくざ美化でない証は
この作品のバックボーンとして貫かれている。
それは、この作品のテーマが敗北にあるからだ。

敗戦とともにこの国から秩序が失われた。
その混乱期には暴力という力が支配する。
特に広島や長崎など原爆の被害を受けた街は
その傾向が顕著だった。
こういう状況から人間はまず集団を形成する。
徒党を組んでその力を増強させようとする。
そして抗争が生まれ弱肉強食が展開される。
これは社会のメカニズムというものです。

その後、勝者は一時の宴に興じるが
やがて嫉妬し懐疑し離反し対立し争う。
この繰り返し。
そこに欲得というのが横たわっている。
これが「仁義なき」の正体であって
利権や損得勘定といった利己主義が仁と義を
凌駕してしまうのが仁義なき戦いの現象です。

なにも得るものなどない。

この作品は暴力団アクション映画じゃないんだよ。
確かに菅原文太はカッコイイ
小林旭もそれ以上かも。成田三樹夫も絶品です。
でもそれは美化じゃないんだなあ。
金子信雄加藤武はハレンチだし
田中邦衛はセコイし、三上真一郎は汚い。
桜木健一はかっちょ悪い(涙)

この作品は主人公広能昌三の失敗の大河ロマンだ。
広能の失敗の原因はビジョンがないことだ。
あったとしても自己の既得権益を死守するという
彼の言葉を借りれば「安全保障」だった。
それは彼が唾棄する悪徳の権化山守とそう変わらない
同じ次元のものであり
組織人としての武田も同じだった。
完結篇でようやく二人はそのことに気づきますが
それには長い時間の浪費と若い人間の命が
費やされていたわけです。

それは笠原のシナリオで必ず語られているし
深作欣二はタイトルバックに必ず
原爆ドームを映し出しいた。
この手の戦いは不毛であり、なんの発展性も
経済効果もない。

そしてね、日本人が戦後なにを失って
迷子になってしまったのか
身に沁みて理解できる作品に仕立てられている。


人生、欲と道連れ
なんて申しますが、その先は不毛なのだ。
自爆テロと同じなんだ。

文部科学省は推薦作品として
高校生の授業に取り入れてほしいぐらいです。

この泥臭い群像劇の狂言廻しとして
菅原文太の演技を観てほしい。
菅原文太の広能昌三は一世一代のはまり役だった。

あの頃、オールナイトで
第一作のラストで広能が山守にいった台詞
「山守さん、弾はまだ残っとるがよ」に
客席から拍手が止まなかった。
とんだニューシネマパラダイスだった(涙)