あかんたれブルース

継続はチカラかな

お腰につけた機微団子


はじめて子供が生まれた頃
喜々として子供の成長を個人的喜びを
打ち合わせの合間に話題のひとつにしていたものです。

あの馬太郎がねえと笑みを浮かべて頷いていた
先輩の岡崎さんがこんな注意をしてくれた。
「私の場合はいいけれど」と前置きして
我が子の話を打ち合わせで持ち出しのは気をつけろと。

世の中には、子供が欲しくてもえられない人や家庭
また、不幸にして失ってる場合もあるから
不用意にそれを話して
相手を傷つける場合もあるんだと。

なるほどなあと。浅はかな自分を反省したものです。

話はかわって
今はわたしは母親の介護中なわけで
単身地元に腰を据えております。
いまでこそ復調著しく元気になりましたが
今度ばかりはダメかと思い
この夏が正念場と覚悟を決めてきたわけです。

土壇場で急遽空港に向かうときは
神頼みしたほどだった。

要支援2とはいえ痴呆症のある87歳の母を
これまで一人暮らしにさせていた後ろめたさもあって
老老介護ならぬ老病介護であります。

介護という言葉には重い響きがある。

幸いうちの場合は回復してくれて
心臓も良好。プラス痴呆も数年前まで回復してしまうほど。
奇跡のようで、あのときの願いが叶ったかなと。
ちょっと御利益がありすぎて
絶好調の母に翻弄される日々。まあ頭抱えつつも
笑って暮らしています。
会話と笑い
これがなによりの特効薬なのかとも思う。

地元の親友
アリとタクマンは既に両親を亡くしている。

アリの場合は二十代前半にお袋さんが癌になり
東京でやり残したことがあったのにすべてなげうって
実家に帰った。お袋さんはその後すぐに他界。
結婚して親父さんも長患いのすえに亡くなっている。

タクマンの場合は十年ほど前に両親を相次いで
あっけなく亡くしている。

そんな彼らはわたしに対して同情してくれて
自分たちはさほど介護という厄介に巻き込まれなくて
よかったという。その言葉には
わたしに対する気遣いや思いやりも含まれているし
また、わたしにはその言葉の裏に潜む寂しさや羨ましさも
感じるわけだ。

子供にとって親の老いは受け入れたくない現実であり
このまま落ちていく不安も手伝ってか
ついつい語気が強まってガミガミいちゃうものです。
いまのサチコがまったくそれ。

わたしの場合は六歳年長と男子というのもあるし
ペコロスの母に会いに行く』の影響や
またここ数年の出来事、
また今回の母ちゃん危機一髪で
すっかり、わたしの心に変化が生じたようです。

介護といってもほんのすこしのサポートで充分な
うちの場合はまだマシなほうです。
裁縫する母の横でタブレット弄っていると
針穴に糸を通してと頼まれてスッと通してやれば
凄い凄いと偉く感心されて喜ばれる。
悪い気はしませんけどね。
ご機嫌なときは朝からカナリヤのようです。

母と暮らせば

なんかほのぼのとした幸福感がある。
皮肉なもんだなあと思うわけだ。
それも比較だろうし、それぞれの状況と比較しても
きりのないことでわたしにはどうしようもない。

ま、そんなこんなでときおり
母との同棲生活を面白可笑しく記事にしている
わけですが
それを腹を抱えて笑ってくれているアリやタクマンの
目尻の深いシワがなんとも味わいがあって
ときどき気後れしてしまうこともある。

なにがどうこうという話じゃないんだけれど
人間同士の付き合いのなかの
ふれあいとか思いやりのなかに
そういう微かな気遣いってものが大事なんだろうと
思う次第で。
ま、そのへんの加減というか機微が肝心なのですが
そういうことを感じさせてくれる
良い友達をもったことを感謝しています。