あかんたれブルース

継続はチカラかな

若き大西政寛と美能幸三。戦争の傷跡と青春の影

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 終戦とは、それまでの「軍事バブルの崩壊」と位置付けていいのではないでしょうか。
 もっともそのバブルはすでに弾けていました。
 「海ゆかば」という曲がそれを悲しく伝えていたのです。(玉砕を伝える放送に使われていました)
 玉音放送はそのセレモニーだったのかもしれません。
 多くの失業者が焼け野原に放たれます。多くの若者が路頭に迷い途方に暮れました。
 そして、多くの若者が刹那の修羅となります。

 上の写真は『仁義なき戦い』の主人公・美能幸三(映画では広能昌三=菅原文太
 と兄貴分・大西政寛(若杉=梅宮辰夫)です。
 美能は山村(山守)組の若衆(実際には山村親分から盃は受けていないとのことです)。
 大西は後に敵対する土岡(土居)組の若頭。

 美能が大西組というハッピを着ているのに注目してください。
 映画第一作で服役していた広能が山守(山村)に愛想を尽かし、若杉(大西)に
 「兄貴、わしはここを出たらあんたのところへ行くよ」という台詞は(2枚目のスチール)涙。
 大西政寛は「悪魔のキューピー」と恐れられていましたが愛妻家でした。
 長男が誕生して数日で死ぬと、
 大西はこの子に「幸三」と名付け、「大西幸三」として弔います。
 
 大西は戦時中は中国大陸に徴兵されていて多くの中国人の首を斬ったそうです。
 それを本人はあまり語りたがりませんでしたが、なにかのはずみで、ふと、
 「戦争はひどいものだ」と呟いていたそうです。
 軍隊では新兵の教育と称してこのような蛮行を強制していたそうです。
 大西はそれを進んで代わってやっていたとも言われています。
 彼の求めなかったこの可愛らしい容姿は彼の人生の様々な場面に
 影を落としたようです。現在ならジャニーズにスカウトされたでしょうか。
 悪魔でもワルガンボでも、、、若すぎる。戦争は悲惨だ。
 戦争は色々なかたちで若者たちの心に影と傷をのこしたようです。
 
 やくざとか暴力団には世間からはじき飛ばされた者たちが多く集うといわれます。
 部落出身者、在日外国人、性格的に粗暴で厄介者とされる者たち。貧困層もそうです。
 急激な社会変動はその慣習を凌駕するようです。敗戦もそれにあたるのでしょう。

 美能幸三は比較的裕福な中流家庭に育ちました。
 (彼は硬派のインテリで谷崎潤一郎など読む文学青年だった。って信じられますか?)
 大正15年生まれ、海軍の大竹連隊。私の父と同じです。戦地に赴くことなく内地で終戦
 身を持ち崩すように呉の繁華街でたむろするボンクラのひとりでした。
 そんな美能に土居組若頭の大西は眩しく映つります。大西は呉の不良のスターでした。
 当時、警察官も極道やるならマアちゃんを目指せと言ったそですね。これも時代でしょうか。

 この大西が実の弟のように可愛がっていたのが波谷守之です。
 「最後の博徒」と謂われ、山口組の菅谷政雄の舎弟。
 広島抗争にピリオドを打ち、山波(山口組対波谷組)抗争では山口組と対決した伝説の人物。
 大西を通して、波谷守之と美能幸三は奇妙な運命に結ばれていました。
 それはまた、さきの話です。